oomi blog

とにかく歩いて目で見て堪能する

ボッチ城series荒城

佐久市前山[まえやま]
信濃国佐久郡


荒城_Prologue
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城名を知ってる人は、"何ちゅうマイナーな城を!"と思うだろう。
それほど地域で知られていない城になる。

実は古刹貞祥寺に行った際、伴野左衛門佐が、両父追善のために建立したにも関わらず"前山城"から離れた位置を選んだのに疑問を持ったため、毎度のCS 立体で見ると、寺に附随する城跡らしきがあった。
思わず
"新城発見!"と思ったが既知の荒城..
佐久市埋蔵文化財分布図に載っていた..

洞源山貞祥寺の史料を見ゆ
「前山城から老若婦人を退去させ、伴野刑部少輔は籠城して討死。子息の伴野貞長は城外で戦い、城に火が上がったため南に突破し、敗残の兵を集めて突撃して討死した。享年二十
前山と荒城は灰塵となったが、洞源の伽藍は開山禅師の徳澤により無事であった」
天正10年依田信蕃との戦記になる

前山城の南と言えば、荒城~荒山城[大澤]の付近になり、ここに再集結して突撃したのだろう。至近距離貞祥寺は戦火を免れたが、大澤郷の長命寺は焼けた伝わる。
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Tweetで前山城は武田晴信による天文17年普請と伝えたが、それ以前は"荒城が伴野氏の前山の城"ではなかったかと考えている。荒城の900m南西に大澤郷の"荒山城"があり、洞源湖の付近には大堀があったと云う。当然守る為の堀で、ここが前山伴野氏の一体的な拠点とした場所と推定した。
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ちなみに、
「洞源山貞祥寺開基之由」には、
伴野佐渡守光利は出家剃髪して荒山城の西丘に庵を設けて隠居養生した。延徳元年卒 洞源院殿廓翁了然
その後、孫の左衛門佐貞祥も剃髪して大永元年に荒山城の庵へ入り、両父追善のため叔父節香禅師を招いて貞祥寺を建立し日夜参請したとある。永禄2年卒 貞祥寺殿讃月斎全心
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このように、平地の低い場所にある荒山城は要害堅固でもなく館のようなもので、"隠居城"として使われていたようだ。
武田晴信が内山城に佐久郡を治める拠点を移し、武田の前山城は不要となり、伴野氏が在番又は与えられることになったのだろう。こうして伴野光利から整えた荒城、武田が築城した前山城の形が整ったとみられる。


荒城_01
縄張り
あまり知られていないので、歩いて全域を調べると、追手となる虎口を山側に設けて大きく迂回させる城であった。
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城中の畑へ車が入れるよう埋められた痕跡があるので、恐らく虎口には空堀があり、地下水位が高い場所なので水堀だったかもしれない。
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ここを橋で渡って城に入ると、反時計回りに狭い城内の道を通し、複数の曲輪を経て本曲輪に至る構え。
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敵を1列にさせて移動させながら討つ構え。特に虎口からの侵入を押さえる西と2曲輪に堅固な建物を置くなど要としたろう。

一方の荒山城からの道は谷底で険しく、南斜面には崖と緩い部分があり、25°程の緩い斜面には無数の切岸が施されていた。
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城跡だと知らずに行ったため、疑う視点で城に広がる林檎畑や藪を丹念に調べたが、見るにしたがって遺構と感じ、決定的に確信したのが本曲輪の土塁であった。武者走り付きのWーNに延びるもので、築城者がどう守ろうとしたのか教えてくれるもの。


荒城_02
前に紹介した南南東4.5kmにある小田切城の切岸は、段平場が1~3mであったが、荒城では幅が3~7mと広い。
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戦の仕方によるので長い腰郭なのか、段なのか判断は難しいが、広ければ各段に兵を配置できるし、二重三重の木柵も置ける。ただし敵が多く滞留できるスペースにもなるので、使いようなのだろう。
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荒城では、平地の幅を狭く複数段にするよりも、切岸の高さを優先したのだろう。概ね4~6mの高低差となる。
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私見では、東西の尾根ラインに置いた曲輪を軸に、南側は概ね切岸の段々を展開、北側は腰曲輪で、兵の配置や建物が置かれていたと見ている。そして南側麓近くの荒山城からの道の脇上に、出入りを見張る関所のような曲輪があったと思われる。今は畑になっていた。


荒城_03end
荒城のある山の地質は、前山城,小田切城と同じく礫岩を基盤とした火山灰質土の山。前山城より土量は多く、小田切城より少ない、これは八ヶ岳からの距離によるのだろう。
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荒城の普請の様子を見ていくと、岩を砕くことなく、岩盤の形に合わせて土を切り盛りして曲輪を築いていた。

本曲輪の西~北には土塁が置かれ、土塁が無い南~東には板塀の礎石と思われる石が散乱していた。土塁は武者走りの幅がきちんと確保され、火山灰土のため500年以上も経つので潰れ気味であった。本来は高さ1m以上はあったろう。
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全周を土塁で囲んだ方が効果的だと思うが、上って来てほしくない西~北は高低差を重視し、南は追手口から入って来た敵を狭間から討つよう使い分けたかと考える。
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(下写真は板塀を復元した場合の参考)
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荒城の周りを歩いて驚いたのが、地下水が豊かで至る所に水が湧いていたこと。用水技術が未発達な中世では絶好の耕作地を得られよう。
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文明16年に伴野殿の在所を訪れた瑞知客は、そこを「前山と云,四方沼田あり,三方は町,山城なり」と記し残した。
武田の前山城付近の土地を見ると、湧水は無く沼田でもない。
荒城を中軸に、左右へ貞祥寺と長命寺を構え、そこは城への登城道でもある。見事な構えではないだろうか、ここが前山伴野氏の拠点、前山の城なのだろう。