oomi blog

とにかく歩いて目で見て堪能する

ボッチ城series霞城

長野市大室[おおむろ]
信濃国高井郡


霞城_Prologue
高井郡南端の大室[おおむろ]に城はある。
f:id:oomikun:20211123140940j:plain
海津城から北へ向かい、郡境の山峰にある"可候峠"を越えた所にある次の小さな尾根。奇妙山から続く尾根の末端で、戦国時代は千曲川が傍を流れ、一帯は氾濫域であった。
多くの城好きが、その石積を褒め称えるので期待増。毎回人と違う方向から訪城する質のため、奇妙山から下り霞城へ入る
f:id:oomikun:20211123141030j:plain
東から尾根を延々下って行くと、霞城へ近付くにつれ尾根はなだらかになる。幅が20m程に広がったところで「守り難いだろうな」と思う。
そして遺構が見え始めると、驚く事に浅い堀切に1m弱の石積が高さ10m斜面へ段状にあるだけで、本郭に着いてしまった。
f:id:oomikun:20211123141623j:plain
これは古い時代の縄張りである。大室氏の居城とするならば長い年月の中で、もっとやりようがあった筈。

大室村の明治初年の絵図に「霞城」と墨でハッキリ書き込まれる。現在より至る所で千曲川は東の平地へ食い込み湾曲して流れていた。
その千の曲がり名に相応しいもの。
f:id:oomikun:20211123141448j:plain
そこを避けるように道が通っていたため、今とは想像もつかないほど、不便な峠越えの連続であった。江戸時代に松代道と呼ばれる道、最大難所の可候峠の手前に霞城あった。

霞城_01
公表されている縄張り図は意外に少なく、全体像もハッキリしていないようなので、今回広めに踏査したものを載せる。
f:id:oomikun:20211123141904j:plain
図の"赤実線"を見てもらいたい。
これは"石積"である。
f:id:oomikun:20211123154308j:plain
かなりの量だと分かろう。全石積の8割ぐらいを押さえただけなので、まだまだある。
俯瞰して見ると、西に多くの労力が投入されているのが分かろう。西は埴科郡へ向かう方角。

霞城の縄張りはシンプル
山頂にある郭は本,2,3,4,南,北郭。やや下がって東,西郭。他は斜面中腹の郭となる。
縄張りは14世紀前半以前のものと思われるが、問題となるのが南西の追手虎口になる。
f:id:oomikun:20211123143042j:plain
外桝形の構えになるもので石積で造られた。主郭との間にある崖がミソで、凹凸を垂直に切岸整形する際に発生した石を虎口に積んだものだった。

霞城_02
多くの城好きが見事な石積を見て満足♡して帰る。写真がネットに掲載され私も共感していた。
しかし実際に霞城へ行き、道無き中腹を一周していたら、想像を超える石積があり絶句した。巷の情報に無き"王者"..最高!
f:id:oomikun:20211123142714j:plain
暗い斜面に佇む古き遺構、ここまで積んだ人の存在に畏怖を覚えた。
f:id:oomikun:20211123142925j:plain
レーザ測定すると概ね「高さ5.5m」あり、その下の斜面を含めると7.5mもあった。
口を開けて見上げ..唖然

王者の残存区間は東側の延長15m程で、西側の20m程の区間は大崩落していた。物凄い崩れた石材でバラバラ。数は5000個あろうか。木の生え具合から崩落したのは古くない。崖から巨石が転がって破壊した模様。残存していればさぞ壮観であったろう。
f:id:oomikun:20211123143229j:plain
東側は蔓性植物がネットのように覆い、崩落を防いでくれている🙏

霞城_03
南西の追手虎口はクワガタである。
崖を顔とし、ハサミの如く土塁を築き石積で覆う。鋏の先端どうしの間に追手門を置く。それを突破すると折れ石積が中段で待ち構え、桝形内のため四方から攻撃の的となる。
所謂、斜面に造られた桝形。
f:id:oomikun:20211123143350j:plain
まるで愛知県の三河湾に似た形
中段の背後に高さ7mの崖が上段として聳え、飛道具を放つなど立体的な構えをもつ。
追手虎口の桝形内の右手は段状の石積が構えた近世城のディテールの如く。
f:id:oomikun:20211123143612j:plain
敵はそこを避け、必然的に道のある左手へ鍵之手に坂を上るが、次の2番石積虎口が待つ。
f:id:oomikun:20211123143801j:plain
中段の折れ石積を東の方へ見に行くと足場が悪く、崖崩れの跡でメチャクチャな状態。散乱する石の中に、井戸跡らしきを発見した。
f:id:oomikun:20211123144033j:plain
位置的に水が湧くような場所には思えなかったが、貴重な井戸を確保するために、追手虎口を構えとも考えられるのではないか。

霞城_04
▷石積考
丹念に見ていくと、石材の利用法に特徴があるを気付く。
「板石」「多角石」「多角の小さい屑石」から成る
板石が重宝されているらしく、概ね4パターンに分類した。
①縄張り上,特に重要な所は全て板石
f:id:oomikun:20211123144324j:plain
②構造的に支える部位の隅石と下部に板石を用い、その中央に多角石を詰めているもの
f:id:oomikun:20211123144359j:plain
③石塁は屑石
板石が1つも混じっておらず徹底している。積むより集めたもので、写真は登り石塁
f:id:oomikun:20211123144503j:plain
④南東の多段石積は劣った屑石
高さ1m弱で切岸の代わりに石積としたもの。②③よりも小振りな多角石を用いており残渣と思われる
f:id:oomikun:20211123144608j:plain
霞城の石積は、明確な計画性に基づき積まれ、余すことなく石を利用していた。

霞城を築く以前
ここには古墳があったことを知らなければならない。大室古墳群の分布図を見ると、右上の北山支群は尾根の先端まで古墳があるが、霞城支群は城郭の手前で途切れている。
f:id:oomikun:20211123144718j:plain
奇妙山から下りてくると、石室だけ、炭焼窯のようなもの、潰れたものなどがある。霞城でもこれらを利用したことが考えられる。

霞城_05
地質
城のある山へ千曲川が衝いていたため、削られた西と北の麓には崖が見られる。六文銭を掲げる禅福寺の崖は見事な基盤の安山岩
f:id:oomikun:20211123144757j:plain

追手虎口背面の崖も同様だが、基盤上に載った層で板状節理が際立っていた。
f:id:oomikun:20211123144956j:plain
ここが石積の丁場である。採って手渡しで積んでの単純繰返し。節理が進み過ぎて、崖がそのまま石積に見えてしまう!
f:id:oomikun:20211123144914j:plain

霞城の石は、
割れ面が鋭利フレッシュで、最近割れたばかりと思えてしまうほど。石も風化に強いらしく、叩くとキーンと金属音が鳴り響く。吸水性が低いのだろう。
f:id:oomikun:20211123145109j:plain
表土は想像以上に薄く、主郭でも1m無い感じ。主郭や斜面を観察すると岩盤が多く露出していた。落葉で覆われているが、戦国時代は岩がゴツゴツ剥き出した豪胆な城の姿だったのかも。

霞城_06
▷桑畑考
大正時代の地形図には、霞城の主郭と南斜面の2箇所に桑畑記号がある。
f:id:oomikun:20211123152028j:plain
一般的に長野県では、戦後に蚕産業の衰退から林檎,栗,胡桃等の畑や植林地へ変わるもの。
高速道から続く霞城の南斜面へ行くと、針葉樹が植林され低い石積が段状に施されていた。傾斜地が豪雨で崩落しないよう石積を設けたもの。
f:id:oomikun:20211123152157j:plain
経験的に20°前後の緩斜面で施されたものが多く、そこに石積を設けると約1mの高さとなる
概ね個人で積むため、最低限かつ楽に済ますもの。
積み方や石材選択が城と違い、苔も生えていないため近代のものとみられるもの。主郭の石積にも同様のものがあり、積み直しがされていると思われる。
f:id:oomikun:20211123153329j:plain

霞城_07 End
王者石積の存在意義
桝形虎口より、王者のある位置は微妙に高く、南東の崖下から回り込まれ、虎口はあっさり落ちてしまうのだ。せっかくの虎口が無駄となる。
よって高石積によって侵入を遮断し、安心して追手虎口からの敵に対する事が出来るのだ。
桝形虎口の機能に不可欠な高石積。
f:id:oomikun:20211123153814j:plain

武田上杉争い以前の典型的な古い縄張りだが、後から外桝形虎口を石で積んで増築したように思える。縄張りにしては異常に広い主郭、大軍の食料を蓄える中継基地として使われたのかもしれない。
f:id:oomikun:20211123154802j:plain

おわり