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とにかく歩いて目で見て堪能する

ボッチ城series内山城

佐久市内山[うちやま]
信濃国佐久郡


武田信玄が郡支配の拠点とした城。
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[内山城]Prologue
何故この山々を選んだのだろうか。写真の左から右まで全て城であり一大要塞の如く。そして最も高い所が本郭。これまで見てきた信濃の城の中でもなかなか大きく堅固な城だと思う。

一般的に追手道と言われる集落から続く案内看板があるルート付近を見ただけでは、この城の本質は分からない。
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前回は1年半前..標識に従って本郭を目指したが、まんまと地形に誘導され南郭へ到達。本郭の周囲は断崖が270°程も囲っているので、入口が分からず崖下をウロウロした苦い思い出があった。今回は反省及び予習をし、広い視点で探る事にした。

倒木などで荒れ果てた山、十数年前まで維持管理されていたが、以後放置により自然に戻ろうとしている最中なのだろう。武田氏佐久郡一円支配の拠点であるにも関わらず、国県市の何れの史跡にも指定されていない。
民地なのか、地域が望んでいないのか。
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巨大な岩山の城の麓を一周してみた。実際に自分の目で見るのと、想像していたものとの相違点が大きく、反省しつつ楽しいの一言。
皆さんに分かり易い縄張り図をと作成してきたが今回東域を加筆し完成。
これで内山城の全体像は把握できると思う。改めて"武田やるな!"と思ってしまった。

[内山城]01
縄張り総括
総構となる城下町と、滑津川、上野国への富岡道を取り込む。そこを鶴翼状に包み込むように城が包もうとする如く。
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これまで主郭のみが内山城として紹介され、「あれっ?大したことないな」と、周辺の山城と同じ様な評価を受けてきたが、先達訪城家の調査で次第に郡の拠点として巨大な城が明らかになってきた。
細部の解説をしていく。

☞縄張り図の黒く帯状に記したのが、現地で突破不可能と判断した崖。歩いてチェックしたが異様な岩である。高さは4~20mで、内山城の縄張りは崖に依存して築かれていた。
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基本的に街道沿いの南からの敵を主と想定しており、南郭に力を注いでいる。その他、主郭,西郭,中郭があり全体4区画で構成され、各独立している。

[内山城]02
内山城の防御上重要となる地質
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山全体が志賀溶結凝灰岩の塊。地表に出てる石は風化により溶岩レンズに沿った水平方向の亀裂が生じている。石垣のように見えるのもあり面白い。
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中郭の付近のみ、溶岩が固まった玄武岩で、水平方向の薄い強節理が見られる。叩くと金属音がして鉄平石なのだろう。
表土厚は1m未満でパサパサの土。

[内山城]03
それでは、各縄張りを見ていく。
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鶴翼の右手_西郭
防御性は低い
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尾根突端には高さ3m程尾根より高く突き出た簡易な郭がある。佐久平方面への見張台であろう。尾根側に切岸を施し、侵入が予想される南西へ腰郭を3段構えた。
西の斜面には崖が露出し、敵の侵入は阻んでいそうだが、一帯が採石場となり詳細は不明。

内山城_西尾根
突端から東へ尾根が続く、ここに土を均すなどして幅14m程の平地を設けていた。50m程の長~い敷地で、建物を意図した用途意外は考えられない。斜面の表土は軟らかく崩落跡も見え、当時は斜面に無数の切岸があったと思われるが、今は少数しか分からない。
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自軍が上州などへ向かう際の宿営地として充てた所ではないかと思う。

西郭の中核
尾根中間の小高い山。主郭より80m低く円形に近い。4つの中規模な郭から成り、西からの敵を防ぐ仕様。食い違い虎口の跡が見られ、柵などで守る城なのだろう。東側を堅固にしなかったのは、捨てるつもりで敵に占用される可能性を考えての事だろう。
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立派な堀切が区切りで、そこより東が主郭ゾーン。小山田備中守の技が始まる。

ここで!縄張り構成
☞ポイント
南郭は崖の船で天然の難攻不落。西郭は捨てる前提の郭。中郭は単なる腰郭段々の古い縄張りだが、中間で崖が塞ぎこれも非常に堅い。
しかし実はこれら郭群を落としても、主郭へは入れないのだ。結局高さ20m以上の崖が囲むため、"搦手口と西郭からしか攻め込めない"構えとなっている。
だから西郭からの斜面は、匠な工夫がされている。

[内山城]04
小山田備中守仕様_西郭の仕様
☞内山城の山の特徴は、地質的に切岸や整形を施した箇所は岩が露出するという事。
堀切から距離70mを一定勾配の斜面に整地して射線を確保。
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そこから上は岩盤の切岸で段差を造り、上に行く程に巨石で段差をより高くした。上中下から同時に弓を射るのだろう。
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西斜面の巨石郭は、切岸の角度がほぼ90度。天然の岩なので凹凸が生じ、凹の部分には石が積まれていた。
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今は多くが崩れ残念だが、戦国時代は威圧を覚える景観だったろう。
西斜面の全幅は5m程だが、入り組んだ配置の巨石でジグザグにしか進めず、道幅も1人が通れる程度。木柵や逆茂木があれば、最早突破は不可能だろう。
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☞尾根を塞ぐ重厚な構えがある場合、敵は左右の斜面へ回り込む。その為に多くの城では堅堀を設けるが、内山城では急な斜面のためと、小山田備中守がこの手法を知らなかったのか存在しない。実際に斜面へ行ってみたが、険しく手を使わざるを得ず不要なのだろう。
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☞小山田備中守の特徴
園城寺口から本郭へ上ると急な尾根が続く。次第に岩、岩、巨石、岩盤露頭となる。これを切岸と石積により、見事な腰郭の段々に構築。
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ふっと..
どこかで見た景色だな~と思い出す
そう!尼巌城である。
調べると尼巌も小山田備中守が関わっていた事を知る、彼の得意手法の1つなのだろう。


[内山城]05
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中郭
追手道が通る郭
西斜面の巨石腰郭の上で、中郭からの追手道が合流する。ここに櫓門のような建物があったと思う。
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▷中郭は尾根に10段の切岸から成る。段差は1~3mで普通と思うが中間に見事な崖がある。
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溶岩が隆起した玄武岩安山岩の絶壁で、腰郭を越えてきた敵はさぞ驚くだろう。

中郭の崖は、腰郭群を完全に遮断しており、敵は進めないので、東へ迂回させられる。ここは本郭など三方向からのキルゾーンで、城門を築いて通さなかったろう。兎に角堅い構え。
崖郭のサイドには石積が残っており、内山城での積み方の指標となる物だろう。
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☞中郭の崖を避けて、歩き易そうな東へ側面へ回り込むと主郭のキルゾーンに入ると説明した。主郭がどんな様子か見てみた。
やはり突端を整地した作事痕があり、近世城郭だと櫓を建てるような位置であった。
しかし超凄断崖で...際まで近付けなかった💦
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見張台
中郭と南郭の間、長大斜面の中腹にポツンと二段の小さな郭がある。上下左右見通しが良く、追手道を見下ろし、城内への通行を見張りできる所。
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見張郭は高さ3m程の岩で、この面に多くの穴が空いている。溶結気泡かとも思ったが、数が多く追手道側の面のみに複数ある。
鉄砲の銃痕?
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[内山城]06
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南郭
小山田備中守仕様の岩船である。南郭は富岡街道を見下ろす尾根。麓から斜面,崖,斜面そして郭に到達できる。
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例えば敵が崖を上り頭を出すと、郭まで射線が通っており、狙った矢が飛んでくる。崖は4~10mの高さ、一番低い所を探し出し上ってみたが、その上に続く斜面も急。危険かつ筋肉限界。
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南郭は5段の腰郭と馬場郭から成り、陽当たり最高。切岸部分は志賀溶結凝灰岩が露出す。
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その上は馬場郭と云われる広い平地があり、大型の建物が4軒は建てられるだろう。
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主郭に近付くにつれて崖が切れるが、無数の切岸で補う。どこでも80m位の範囲で射線が確保され関心した。崖にも切岸を施す徹底ぶりで、岩の切岸群は初見

南郭の先端は崖の突端となる。
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真下は高さ2m崖、その下に幅1mの平地、その下に高さ2m崖を繰り返した段形の作事をしていた。縄でも括り付けて作業をしたのだろうか?危なくて確認できないが3段は見える。
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☞南郭の東側は斜面がやや緩く敵の侵入が予想されるので、腰郭を増やし更に石塁を設ける徹底ぶり。備中さんは細かい

南郭の背後の謎?
巨石と小崖の腰郭が構える。高さは3m程でこれまた堅い。
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その背後は内山城最大の高さを誇る本郭の超崖が控え、通行は不能。この巨石3段の腰郭は何を守ろうとしたのか?崖で行き止まりなのに..
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☞想像に過ぎないが、本郭へ上る立派な階段か梯子があったのではないかと思う。


[内山城]07
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東郭
この尾根の末端は崖で、尾根の頂上側も本郭の崖のため行き止まり。結局..北の急な寺沢からの斜面を上るか、南郭からしか攻められない。その間に腰郭が4段あるのみで、建物があったような大きな郭は無い。
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南郭からの連絡路は歩き易く、東郭へはアップダウン無しで辿り着く。東郭は南郭の出先なのだろう。
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寺沢からの北斜面は、両手を使わないと上れないほど急で、人工的な均一斜面を成す。
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斜面の所々に石積が残り、簡単に上れないようにしていたようだ。
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寺沢からの敵に対する南郭の前衛門のような役割なのだろう。

[内山城]08
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搦手口_北斜面
山城は町や街道に面しては複雑に郭を設け、敵の侵入を防ぐ手立てが盛んだが、得てして裏側は簡素だ。内山城も縄張り図で見ると搦手から本郭まで距離が近く例外ではないようだ。
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実際に行って見ると、全体が巨大な堀切であった。
人間が斜面を上るに、どう肉体的負荷を与えるか考え事抜いた構造なのだろう。
主郭❲3❳を北面の指揮所にし、急斜面の中間に防衛の要となる腰郭❲7_下の写真❳を置き、その下に切岸の段と鞍部に堀切を設けた。
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切岸は急斜面に造ったので三重の堀切にも見える。
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戦艦の艦橋へ外から手足を使って上るようなものと感じた。
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[内山城]09
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主郭はどうなっているのだろう。
敵が追手道から攻める場合、崖があるため大きく左回りで本郭を目指す必要がある。
主郭に入ると5個の郭が待ち構え、郭❲2❳が追手と搦手に面して5m近い高さの土塁を設けて容易に通さず、敵を西の崖際の細い通路へ誘導する仕組みとなっている。
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3.6-5-4郭で本郭へ到達する動線で、東側は絶対に通さないよう、郭を崖際まで封じていた。
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このような岩山の山頂は、当然ながら岩の頂上となるのだが、内山城では大量に土を運んで平らで大きな郭を築いていた。
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武田の国普請は大土木工事であるのを実感した。
主郭の北側と西側に露出した巨石を見るに、尾根の土を剥ぎ取って主郭へ運び、更に郭❲6❳から追手道への斜面をダイナミックに切岸し[下の写真]、こうした土砂を運んだと思われる。
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土は凝灰岩が風化したもので、若干腐葉土が混ざっているが灰色でパサパサ。
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強く足踏みするとやや白い粉が舞うイメージ。自然の山頂より5~7m土で盛ったと思われる。

内山城最大の高さを誇る、主郭南東端にある超崖の先端
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[内山城]10
補足的な話題だが、
寺沢口には多数の近代石積がある。
数十年前まで田畑や人家まであったと思われる広い谷。生活に必要な水が豊富な所。
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そこから内山城北の搦手まで緩傾斜が続き、多数の石積が段状にある。概ね高さ1mが20段程あり、石を3~4個布積したもの。大正時代の地図では桑畑とあり、その時に積まれたものであろう。今は御約束のように杉林。
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寺沢口の谷を出た付近は湿地帯となる。
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意外に多くの水が湧き出て清んでいた。広範囲の地面がヌカって足が滑る。
谷の口元には、内山城の正門か?と思うような立派な巨石門柱があった。ここから南郭や本郭への飲水を運ぶルートが確保されていたのではなかろうか。
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[内山城]11
有名な井戸がある。
武田軍がここを押さえて、内山落城の決め手とした水の手という逸話がある。
主郭の北西へ70m程下った山の中腹、凹凸が無く遮るものが無い整った広大な斜面。
そこに石積を組んだ井戸がある。シーンとしていて近付きがたい👻と.こ.ろ.
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斜面に突如として存在したような井戸でぎょっとした。
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主郭には水が無く、井戸か先述の湿地の水を利用していたのだろう。

[内山城]11
全体を網羅したいので、寺沢とは逆の搦手口の北にある谷へ行った。
ちょうど先述井戸がある斜面をひたすら下りて行った所になる。
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腰郭もなく異様に見通しの良い長い斜面。途中に門の礎石と思われる所があり、そこから道が北の谷まで通じていた。遺構は何もない。
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谷に水が流れ静かで落ち着いた所。大正時代地図では桑畑になっており、やはり今では杉林であった。近代石積の段々がひっそりと並ぶ。
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[内山城]END
若き武田信玄が築城に関して信頼を寄せた宿老の"小山田備中守"の技を見るにはもってこいの城だろう。
特徴を整理すると以下のとおり。
❶巨石を活かした段状バリケード
❷岩を切岸
❸整形した均一で長く広い斜面
時代的には"弓"を主体的に活用しようとした縄張りではなかったかと感じた。

あとがき
内山城の南側には富岡街道が通り、武田の時代に上野国との主要な道を押さえる城として存在価値があった事が分かる。園城寺から広がる町屋が街道を取り込み「宿城」としての内山城の性質を表しているが、その他に東の寺沢に湿地があったり、屋敷もあった可能性を今回感じた。
大きな山城と崖のため、1日で見るのは大変である。足元が危険で迷路のような山なので、注意して上ってもらいたい。
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