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とにかく歩いて目で見て堪能する

ボッチ城series麻績城

麻績村麻績[おみ]
信濃国筑摩郡


☞まず始めに、
今言われている麻績新城と麻績古城という記述は全く逆であることを述べる。高い山の上にあるのが古城である。その理由は以下のとおり。

千曲市八幡(旧更級郡)から西へ標高差600mの山道を上がりきると"麻績村"に入る。
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この村境の峠を「猿ヶ馬場峠」と言い、ここから松本まで谷地形の筑摩郡が続く。
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筑摩郡にとっては東端だが、千曲川沿いの更級郡,埴科郡にとっては戦略上大切な峠。ここを押さえねば郡の半分を失う事になる。村上義清武田信玄の戦略に敗れ自落した要因である。後に信濃武将の要請を受け、川中島四郡を奪還した上杉景勝は、必然と麻績を押さえた。
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麻績城がある位置は筑摩郡の東端、松本と善光寺の東西を結ぶ善光寺街道が通り、南へは室賀など小県郡、北は牧之島城への大岡道が交わる要所である。
☞しかしながら、武田信玄が麻績城云々の記録は史料になく
妙法寺記」1553年
「典厩.青柳の城御鍬」
とあるように、武田はやや西に離れた青柳城を中核に考えていたと思われる。
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麻績城_プロローグ
城の説明入る前に、
怪奇な状況の城のため..整理する必要がある。
☞一般的には、麻績城は県史跡に指定され、麻績宿北に聳える標高943m城山にある。
☞その手前南麓にある標高777m虚空蔵山城(古城)は支城とされていて未指定。

先にも述べたとおり、史料では武田時代の麻績城云々はなく、1583年上杉景勝が侵出して麻績城の文字が頻出する。
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☞県史跡麻績城は、細尾根に築かれた単調な縄張りの山城で、武田も着目しない国衆の城と思われる。一方で麓の虚空蔵山城[古城]は特筆すべき優れた技巧の城であった。

地形位置的に、古城は武田時代の麻績清長が領する館のような所であったが、1583年上杉が防衛ライン構築として、鍬立を行ったと思われる。よって虚空蔵山[古城]を上杉時代の史料で述べる"麻績城"として扱うことにした。

☞1983年刊『長野県の中世城館跡』教育委員会には、次のようにある。
▷麻績城[県史跡]
▷虚空蔵山城[地名-古屋敷,呼称-古城]

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この虚空蔵山城図を見る限りではそう判断するだろう。しかし虚空蔵山城の縄張りを実際に見たら、古屋敷?などと言えない、レベルの高い縄張りで驚嘆した。
下段の優れた要害と、上段の山城の構成。天正壬午の乱で、小県郡埴科郡境に上杉が築いた[上段]虚空蔵山城ー[下段]ツルメ城(飯綱城)の上下段の構成、そっくりであろう


さて、麻績城について基本事項を整理させてもらったが、城好きな先達や私が調査した結果による縄張り図は、こんな風体となった。
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前掲した県作成の城図と比べてもらいたい。


◆麻績城[虚空蔵山城][古城]_01
それでは城へ参ろう
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麻績城は、麓の法善寺が登城の入口となる。
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そのまま緩く広い沢筋の追手道、それを挟む東西の尾根の三つの道が城へ通じる。
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①追手道は、近代に麻or桑?なのか、畑の段々に石積が築かれ戦国時代のものと騙され易い。ここは両側の尾根から挟撃される地形で、切岸と柵、逆茂木などで通行を阻害していたと思われる。
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②③一方で、追手道を挟む東西の尾根
不思議なことに、同位置に都合良く岩盤が露出して尾根を遮っていた。これは人工的な切岸なのだろう。両方とも高低差7m程の緩い崖状となっており、凸した岩と岩の間が迷路の虎口のようになっていて面白い。
ここに櫓門などを置いて侵入を防ぎつつ、追手道を上がって来る敵に横矢を仕掛けていたかもしれない。追手道まで射程50mで上手く収まっていた。
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②西側の尾根崖先端
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③東側の尾根崖先端


◆麻績城[虚空蔵山城][古城]_02
尾根に露頭した岩盤。
茶色い砂岩で所々に堆積模様が見える。これまでの城訪では一度も見たことが無い綺麗な地質でテンションUpは止められない。
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軟らかい部分が風化や雨で削られ、硬い部分がモコと残る可愛らしさ。凹凸は1~2mとなり、隙間を縫うように上がらなければならない。
表土は薄く50cm前後、麻績城は所謂岩山だった。
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◆麻績城[虚空蔵山城][古城]_03
▷この城最大の特徴
追手道、それを挟む東西の尾根、
3ルートで攻め上がった敵は、前面に展開する同じ崖で行き止まりとなる。
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まるで屏風のように折れながら、延々と展開するため「崖垣」と名付けることにした。
ほぼ垂直で、高さ4~6mとまるで石垣代わりのようだ。
崖垣は砂岩の風化等により前後に凸凹し、外へ3m以上突き出した崖は天然の横矢掛となっている。全部で7箇所程見られた。
これが自然につくられたというところが凄いと感じた。この横矢掛の間は凹部となるが、2ヶ所程に急坂路が設けられ、人の出入りが可能な所があった。恐らく虎口なのだろう。
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麓に面して崖が帯状に展開するという奇跡のような地形の城。横矢掛となる凸の先端は舳先のようで、立ってみたが高い..ちょっとした櫓を置けば最高の防御だろう。
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◆麻績城[虚空蔵山城][古城]_04
この崖垣の上は本郭である。
但し、崖垣虎口からのルートは、
中段の4郭→3郭→2郭と、
順に突破しなければならない。
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4郭は背筋がゾクッとした郭で、岩盤を削って長細い平らな郭を造ったもの。虎口を上がって左に折れさせるので、桝形虎口に該当する。敵は常に右手の本郭から攻撃を受け続ける。
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4郭から3郭の間には天に突き出した岩の門があり非常に突破は困難。ようやく到達した3郭は虎口を守る中心的な郭で、岩が点在する斜面を上らねばならない。
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3郭から2郭、2郭から本郭は、盛土をした通常の腰郭。段高は3~5m程度。
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最後の本郭へ入る箇所では、石積の跡があり、門扉が置かれていたのだろう。
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▶麻績城の豆歴史❶
武田の時代に麻績を領有していたのが、
麻績勘解由左衛門尉清長
彼の残した生島足島神社起請文が面白い。
名指しで「屋代,室賀,大日方とは公なものを除いて仲良くしません」とある。隣接する信濃国人どうしが団結するのを規制する武田の政策があったのだろう。ギスギスした時代..手紙のやり取りすら謀反と疑われる状況だった。

◆麻績城[虚空蔵山城][古城]_05
崖垣は自然の産物なので、上端に不陸がある。低い所は弱点になるし、本郭を平らにするためにも対策を行う必要がある。
そこで石を積んだ。
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崖の上にもうワンクッションといったもので、概ね1m程度の高さに積まれていた。野面の布積みで、岩盤の砂岩を用いていた。掘削で出た石を効率よく利用したのだろう。この石積の上に板柵が巡らされていたことが想像される。

▷本郭
広くも狭くもない平らな空間
東ー南ー西と鉢巻石積が設けられ、北側のみ石土塁があって、背後の大堀切との落差を際立たせていた。
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上杉に関する山城で概ね見かける構造。麓から来る敵を遠くからでも見通せるよう斜面を整形し、切岸を多段に設け、崖垣へ取り付くのを容易にさせない縄張りであった。
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北側の石土塁、高さは2m程になる。
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▶麻績城の豆歴史❷
南西の松本方面を臨むと、青柳城が良く見える。麻績左衛門尉清長..別姓は青柳。武田信玄から青柳ー麻績ー大岡を賜っていたと推定されている。
上杉景勝川中島四郡の支配には、麻績+青柳はセットで守るものとされた。
父親の領国を回復したい小笠原貞慶と筑摩郡をめぐって戦闘を繰り返し、麻績城でも激戦が行われた。
そして豊臣秀吉の天下統一で終わる。

小笠原貞慶が上杉から麻績城を奪取したという史料を見た事がなく、逆に敗れたものはある。
☞あくまで私論だが、
1587年3月小笠原貞慶豊臣秀吉の仲介で、徳川家康の元に帰参。この時に上杉領であった東筑摩郡も小笠原へ割譲されることになったのではないかと思われる。
これにより麻績を領する麻績[青柳]頼長も小笠原への帰属となり、怨み様々、松本城に呼ばれ謀殺されたのでは...と


◆麻績城[虚空蔵山城][古城]_06
北郭
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本郭の北側に深く刻まれた堀切があり、当然ながら本郭の方が高い。
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低い位置にある北郭は、本郭に隠れるように存在し、もう1つの指揮所であろう。主に3区画で構成される。建物があったと思われるような長方形の広い郭である。
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西側斜面が急なため特に作事痕は見られず、逆に東側は興味深い構造であった。
①北郭の西側斜面
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②北郭の東側斜面(鶴翼の地形)
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東斜面は徹底的な切岸で、所々に岩盤が露出していた。
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▷更に尾根が一本東へ突き出すように延び、そこに4段の腰郭が作事されていた。
各段差が4m程あり、下段の方は崖。過度な切岸により下段ほど岩盤が露出していた。
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本郭ー北郭ー4段腰郭で囲まれた空間は、湾曲した鶴翼の構えで、麓から上がって来る敵に対し、切岸を無数に設けて阻害し、3方向から攻撃するものであった。麻績城は追手道からの侵入と、ここからの侵入を想定した縄張りの城であったことが分かるだろう。
4段腰郭の最下段の崖は、こんな感じ。
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▶麻績城の豆歴史❸
真田左衛門佐と共に.
松本城で謀殺された麻績❲青柳❳頼長。息子の青柳清庵は真田へ仕官した。
有名な話だが、清庵は関ヶ原の後、幽閉された真田昌幸九度山に同行し、大坂夏の陣真田幸村と共に散った。数少ない内の1人で、なかなかの男気ではないか


◆麻績城[虚空蔵山城][古城]_07
北郭の北側は更に高い"城山"が聳える。
頂上に県史跡のいわゆる麻績城があり、城山が占領されても、この麻績城[虚空蔵山城(古城)]は単独で籠城できるように設計されていた。

この城山の麓と、北郭の間に大堀切がもう一本刻まれていた。深さは10mで深く北郭に土塁が設けられ高い。幅は30mを超えていた。岩盤がこれ以上掘れないので、横へ広げたのだろう。
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この堀切は、山城の中でも特筆すべきもので、近世城郭並であろう。麻績氏が造れるようなものではない。

◆麻績城[虚空蔵山城][古城]_08
▷細かな工夫
山は地球の重力や土の性質もあって、斜面は概ね45°未満で保たれる。そこを単に上ると城方の思惑に殺られるが、斜めや横方向だと攻撃が無ければ移動は容易である。そこで何かしら対策が必要となる。
本郭より13m低い西側の斜面、本郭に土を盛って急斜面に整形した箇所で、その中腹から下へ腰郭が段々に築かれていた。
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最も上段の腰郭の左右に、今は完全に崩落しているが、横移動の敵に対する防塁を設けていて驚いた。上方の本郭からの援護でも守る郭で、石は小粒でバラバラであった。
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◆麻績城[虚空蔵山城][古城]_09
上杉景勝が対徳川家康で築いた
虚空蔵山砦群 ツルメ城[飯綱山]との類似

麻績城の"お城断面"を見てもらいたい。
比較ができるよう並べてみた。
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普通は山の地形に応じて縄張りも変わるものだが、右の麓側に自然を利用した防衛の要となる堅固な郭を置き、その背後に居住する郭を隠すように置く構成が同であるのが分かるであろう。
二重堀切の配置の仕方も同様。
更に総構として奥に山城を背負うのも同じ。

よって麻績城も天正壬午の際に、上杉景勝によって鍬立られたとみてよいだろう。
筑摩郡と更級郡境を押さえる麻績城。想像以上に良い城であった。もっとアピールしても良いと思う。
私の説では"古城"と"新城"などという言葉はナンセンスだと思うし、上と下を合わせて麻績城だと思う。当時の武将はそんな分けをしなかったろう。
生き残るために、使える物は使う。