oomi blog

とにかく歩いて目で見て堪能する

ボッチ城series荒砥城

千曲市上山田,若宮

信濃国更級郡

 

荒砥城_prologue

千曲川の右岸が埴科郡、左岸は更級郡となる。更級郡の中間点、上山田郷の北側に荒砥城はある。南麓は宮澤川と館があったとされる傾斜地で陽当たりが良好。北麓は八王子山との谷間に荒砥澤川が流れ暗い、三角錐の如く急峻で、峰の向こうには善光寺平が広がる。

現在の東麓は道路や温泉街が広がり、千曲川に沿った道路を車が自由に往来しているが、戦国時代に、ここで千曲川が岩盤にぶつかり、上流域に荒涼とした河原が広がっていた。一方の西側は、高い姨捨山への尾根が続く。
荒砥城は「山田氏代々の居城で、村上義清に従い武田に敗れ、武田の支配下」と明治の村誌は伝えるが、史料では次の如く..

荒砥城に関する主な史料
❶天文22年「武田晴信の兵..更級郡荒砥両城に放火す」
天正10年「上杉景勝,更級郡荒砥在番衆を定む」
天正11年4月8日「上杉景勝..更級郡荒砥城に屋代秀正を攻めしむ,是日秀正 城を明けて遁る」
❹直江山城守書状「屋代と号する者逆心せしむる間、かの仕置きのため半途に至って出馬[上杉景勝]申され、その響承はり敢へず、逆徒居城荒砥佐野山両城五三日を経ず自落し、行方なき為体に候」

👉この時代にこれだけ史料に名が出てくる山城は珍しい。それだけ戦略的に代えがたい重要拠点であったということなのだろう。

 

👉この地域の城を考える上で注意しなければならない大事な点がある。それは、千曲川沿いを通れなかったという事。川中島へ向かう武田信玄、二万を率いた北条氏直の大軍etc..どこを通ったのだろうか?

下図を見てもらいたい。

戦国時代、蛇行する千曲川は尾根先端の崖から崖へ衝いていた。上田から善光寺平へは、右岸が虚空蔵山系と葛尾の二重苦となるため、左岸の室賀峠を越えて、荒砥城の何処かを越えていた。

史料からも荒砥城は、埴科郡の葛尾城に対す、千曲川対岸の更級郡を押さえる重要拠点であったことが分かる。

 

荒砥城_prologue2

素晴らしい櫓!

これが建つ以前...
昭和の時代、城跡にはロープウェー山頂駅があり、動.植物園や観覧車まであった。

コンクリート擁壁、複数の建物と廃屋、舗装道路、作業道などで山頂と南斜面は大きく改変された。そして「一億ふるさと創成事業」で、櫓など現在の城山公園=荒砥城が整備されたが...これは本当の荒砥城ではない。

♨️の電光板

 

観光用石垣

最も目につくのが上写真の石垣。これは佐久郡で産出される佐久石で、創成事業で購入し、トラックで運んだ物。この石を使って2ヶ所虎口で桝形を造っているが荒砥城とは関係ないもの。時代や地域的に全くは有り得ない形式なのだ。

造られてしまった新しいものを除外しながら、古の荒砥城の遺構を探して歩く旅となる。地形と地質から想像するなど、なかなか至難の技であった。全体の広い面を見て、周辺の城を参考に想像してみたいと思う。

 

荒砥城_01
戦国時代の荒砥城
これまで天正年間に、上杉景勝徳川家康小笠原貞慶と対峙するのに普請した信濃の城では、山系を広く利用した的確な防衛網を構築していた。


さて荒砥城の麓は千曲川の淵だったため、どこを通っていたのだろうか?

千曲川と淵跡(八王子山から)

下図の何れかの尾根を越えていたと思われるが、松代藩が江戸時代に八王子山の尾根で万治峠を開削したとあるので、①難所であったが同様にここを越えていたか、②より高低差はあるが、安定した荒砥城内を通過していたことが考えられる。

峠の看板

この一帯には城群跡が残る。荒砥城を下にー荒砥小砦ー若宮入山砦ー正城山砦と防衛網が敷かれ、更級郡の南北の移動を監視していた様子が浮かぶ。

人は移動する際に楽をしようと、できるだけ低く緩い部分を越えようとするので、一番低い荒砥城に最も守備の重点を置いたと思われる。その縄張りは右下の上山田から尾根を上って来る敵を想定したものだった。

 

荒砥城_02
荒砥城は腰郭の多段式で、本郭を含めて千曲川側に5郭、山奥側に西1郭と西2郭を中核に長さ200mの長い備えが続く。

奥が本郭、手前が2郭と推定。右の縦列の柵地形はオリジナルと思われる

扇状の4郭


桝形門と通路の造成で、郭の2割程は削り取られたと思われるが、今の郭のGround Levelは戦国時代とほぼ変わらないだろう。郭の高低差は本郭と2郭が6.5m、2郭と3郭が9.5mとなかなか堅固。土塁角度はもっと急だったと思われる。

土塁(左半分は破壊)

 

順次、時間の合間に更新していきます。

最後に「完」と記載してあれば、完成版