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とにかく歩いて目で見て堪能する

ボッチ城series和田城

長和町 和田[わだ]
信濃国小県郡

 

和田城_Prologue

地図には載っていないが、地元で依田窪(よだくぼ)と呼ぶ地域がある。区域が明確にされているわけではないが、概ね依田川流域にあたる。その上流にあたる地が、今回紹介する"和田"の地

「高白齋記」には次のようにある...

天文22年(1553)8月1日の条「和田城の城主その他悉く討ち取り」

これは和田城主の大井氏が、村上義清の支援を受けて上杉謙信へ寝返ったため、武田信玄が誅伐したと解されるもの(下の看板内容は参考)

依田窪には、同時に武田によって落とされた近隣の"高鳥屋城"。こちらは村上勢が籠ったという説がある。そして武石郷の中心となる"中山城"と"武石館"、他に大井宗家にあたる岩村田の大井貞隆が誘い出されて捕縛された"長窪城"がある。

同じ依田窪にある山城をCS立体図で探していくと、和田で最大の集落となる上町・中町(中山道の和田宿)の裏山に最も大きな城跡を見つけた。

麓にはこの時に討死した大井信定の菩提寺である「信定寺」と、江戸時代に整えられた和田宿の名残が見られる。天然の川に囲まれたこの地に形成された町と城の存在は、江戸時代以前から形成されていたことを想像させる。

 

和田城_01

近くの中山城と同じくkm単位で続く、細長い自然尾根の先端に築かれており、大井氏に関連する城の共通性を知りたいと思う。

これまでの経験から、史料に"戦"の記録が残る城は、生き残ろうとする縄張りの意志が地形に表現されているもの。和田城の主郭部分だけを見ただけでは単なる山城に思えるが、そこから尾根の奥へ..奥へ..と進むと、生き残るための形跡を垣間見ることができる。麓に住まう人の大切な歴史の刻みなのだろう。

 

 

和田城_02【縄張り全体】

幅20m程の追川が尾根の周囲をWーNー若干Eと流れ囲む。

登城する口は「釈迦堂口」「追手口」、そして南の尾根伝いが想定される。釈迦堂口は、"口"としたが険しく痩せた細い自然尾根で、やっと登れるというだけの道。現在は下写真のように、釈迦堂駐車場から遊歩道が延びるが、これは近年に観光で切り開いたものだろう。

当時の和田城の主な登城路は図にある追手口になるだろう。宿場の中心付近から斜面を斜めに徐々に登っていく道である。(下写真)

追手道は尾根上にある城内からずっとまる見えで、上ってくる敵に石を落としたり、矢を射たりすることが出来る。

(下写真の上方が城域になり、斜面の凹凸を無くし、射線が綺麗に確保されている)

そのまま追手道を上がり続けると、終いに追手道は釈迦堂口の道と尾根上の地点Aで合流し、頭上には下写真の郭が待ち受ける。

 

和田城_03【地形&地質】
和田城の尾根山は、西側が崖状で東側は急斜面である。両側が崖という"城に適した山"というのは、そうは無いもの。

地殻変動により西側が隆起し、50°を超える程に持ち上げられたため、西側は崖状になったと考えられる。

白っぽい緑色凝灰岩の山で、細かいランダムな節理は見られるが堅い。岩盤は浅いため(尾根付近の表土1m弱)、堀切は浅くなり、普請は必要最低限の中で工夫したものと推定される。

表土はやや粘性のある火山灰質で礫が多く混ざる。雨などで崩れやすく、築城時の土塁などは、現在かなり痩せてしまっている。

西斜面

東斜面

表土

 

和田城_04【縄張り詳細】

縄張りを尾根先端の北側から紹介していく

①「釈迦堂道」の急な細尾根を上りきると、小さな二段郭がある。ここは尾根の東端にあたり、石積跡らしきも見え、大門道方向からの敵を見据える見張台のような郭になるだろう。木が無ければ遠くまで見通せる絶好の位置になる。

東端の見張台

見張台石積跡

そこから主郭へは土橋が延びる。先述したように追手道と土橋を渡った先の地点Aの郭で合流し、更にその上に三段の堅い郭を置いた構えとしていた。

釈迦堂道の東土橋

南斜面の堅堀

東土橋の構造を述べておく。長さは20m程あり、北側は崖をそのまま利用し、南側は切岸により急斜面にした。そして敵が土橋を渡って来て、最後の地点A郭の手前で堅堀を南斜面に長さ50m程に刻み、ザクッと土橋も抉って更に狭くした。この土橋と堅堀のセットは、ここだけでなく、奥に五ヶ所設けられていた。【和田城最大の特徴】であろう。

 

②下の写真は、本郭へ続く三段の郭。和田城の実質的な防衛の中心になる。ここを突破されれば、落城...

今は人工的な階段と梯子で、三段郭を直登できるが、当時は追手道寄りの南へ迂回させ、郭間は独立させていたろう。梯子で往来し、敵が来たら梯子を撤去したと想像す。

戦国時代の山城の土塁の形状は、そもそもの自然地盤に左右されるが、概ね3.5m~5mの高低差を確保するようにし、角度は45°前後に仕上げている。和田城の三段構えも同様になる。

 

③本郭

兵を詰めても100名程度分の広さ

形状は、北の三段構え側の3割を1m程高くし、背後7割の平地に建物を置く。平地の南側端(山奥側)にSーWと高さ1.5m程のL字型土塁を築いたといったもの。

この1m段差境の低い側に、本郭への虎口らしきが読み取れる。しかし虎口を含めた本郭の東側斜面一帯は、近代?に車両乗り入れの為等の道造りによって大きく改変されたと思われ、縄張りの思想が良く分からない。

この破壊によって本郭東側にあった土塁も壊されたかもしれないので、和田城の土塁は"Lで"はなく、本来は"コ"だったかもしれない。

恐らく本郭の東下には、もう1つ郭があり、追手道からを受ける、"馬出し"のようなものがあったかと想像する。

改変された本郭東

 

④本郭背後の堀切と"6段"

本郭の背後は、二重堀切→6段郭→三重堀切と続く。造作の低さなど(当時はもっとシャープだったが、盛った土は流された現状なのだろう)から、急拵えのもので、恐らく古くは本郭の背後に一重堀切であったものを、武田謀叛時に急ぎ拡張したように感じた。

二重堀切(奥に6段郭が見える)

(6段郭側から)

6段郭は、雛壇のような形状で、奥に向かって70cm程ずつ順に高くなっていくもの。盛土で整えていた。戦闘的には不要なものに思えるため、本郭に入りきれない者達を収容するための小屋を各段に置いたものに見える。

 

6段郭の奥には三重堀切が普請され、城域の最終部を示している。その奥は尾根が延々と続き、撤退戦の退路になるのだろう。

三重堀切の何れも、緑色凝灰岩と思われる岩盤に突き当たり、著しく深いものとなっていない。前後に土を盛ることで、最低限の深さを確保した形状。

三重堀切

 

⑤奥山への抗戦の足跡

まず城域を離れると、幅5~8mの長く平らな尾根が続く。小屋が幾つか置けるような面積で、6段郭の続きのように思え、入りきれない者達が居た空間とみられる。(朽ちたアンテナ跡あり)

ここの細くなった途中に第1番目となる堅堀を組み合わせた土橋状の虎口①があった。他にも奥に進むと②③④⑤と同様な虎口が続く。敵を通すまいとする幾重のバリケードである。丸太柵などで遮り、東斜面に回り込めないよう堅堀を斜面下まで抉った普請。

東斜面に刻まれた堅堀の長さは、いずれも50mを超えよう。正解に計測したかったが、いちいち上り下りが苦痛で断念した。小県郡や佐久郡、埴科郡で、これほど堅堀を機能的に採用した山城は無く、近い所では、上杉と関連性がある善光寺西側の葛山城川中島合戦時の上杉前線)が該当する。和田城謀叛の経緯もあるこことから、ここにも上杉家の関与が入り込んでいるのかもしれないと思った。

堅堀虎口①

(長い堅堀)

【余談】ちょうどこの東斜面下に、地下水が湧き出ていた。追手道から少し上の地山になる。山全体を歩いて水を探したが、地質的に飲水を確保するには、この標高付近まで降りなければならないだろう。基本的に雨水に頼った城である。

 

堅堀虎口①のある郭を抜けると、自然斜面の尾根が急になる。守るにちょうど良い塩梅の坂だなと上ると、予想通り上の平地に郭跡が残っていた。「中郭」と名付ける。

そこを抜けると、高低差は殆んど無くなるが、尾根幅は1m程に狭くなり、土橋のような状態で延々と続く。西側はずっと崖で、途中にある4つの堅堀虎口が実に良く機能したはず。

以下、他の堅堀虎口を紹介

堅堀虎口③

(長い堅堀)

 

堅堀虎口⑤

(長い堅堀)

 

⑥詰城へ向かって...

この先に城跡はあるのだろうか?

堅堀虎口⑤を過ぎると..目の前に尾根がせりあがったシルエット、起伏の大きい堀切が見えた。右手の西側斜面は見事な崖。最後の最後の方で堅固な構えがあり、心踊る。詰城側ほど高くなる、高低差を備えた二重堀切である。

(一重目)

(二重目)

(上方,詰城側から)

 

⑦詰城

先達が名付けた"詰城"。最後の最後に籠った地と見られる。郭をじっくりと整地する時間もなく、突貫で数日をかけて村人総出で普請したように感じられた。

詰城本郭

詰城の本郭は丸みの緩傾斜ある郭で、平地ではない。西側は崖状で、緩い東斜面に2郭、3郭と帯郭を半円状に取り巻く。

3帯郭

総体的に普請途中で断念をしたような中途半端な構えで、背後にあたる南尾根筋は、全くの無防備である。帯郭の下には、野球が出来そうな程の広い緩平地が広がる。

扇状地でもないのに、山の中腹にこれ程広い平地がポコンっとあるのは珍しい。鍛治足の村人が籠ったところなのかもしれなが、水場を確認することはできなかった。

追手道を通って城域から出ると、中山道和田宿の街並みが見渡せる。そのまま街道に出ると、脇本陣になる。この地で起こった謀叛の戦場を想像しながら、堪能させてもらった。

 

 

【和田城の案内】