oomi blog

とにかく歩いて目で見て堪能する

ボッチ城series小田切城[雁峰]

佐久市中小田切[なかおたぎり]
信濃国佐久郡


田切城_Prologue
郡内を南から北へ流れる千曲川、概ね西側が伴野荘であった。

以前、伴野氏居城の前山城を見て小さな城に違和感を持っていたが、たまたま付近に山城がないかCS立体図で見ていた時、ギョッとする大きな城の地形を見つけた。前山城の倍以上はあろう、伴野荘最大である。

実は伴野荘の稲作に使われる水の大半は、小田切城下を流れる片貝川に依存していた。建武年間の大徳寺史料によると荘園全体が8000貫近くあり、概ね内52%が片貝川水系、22%が野沢用水系となっていた。
技術に乏しい中世でも水を田へ取り易い中河川で、全体の水源を抑える要地になる。

1478年から千曲川対岸の大井氏と60年にわたる戦に入る。「高白斎記」大永7年(1527)に「二月小朔日乙曲二日 小田切落城」とある。
大井氏に攻められ、伴野氏は武田信虎へ助力を要請しつつ小田切に籠城したが、敢えなく落城した記とのこと。
大井氏との決戦に選んだ城がどのようなものであったか、じっくり見ていきたい。

田切城_01
切岸に命を預けた城。中世の古い縄張りで、周辺の武田以降の激戦を経た城と違い、佐久郡独自の1400年代のもので逆に貴重となろう。

敵は麓の崖部を除いて四方の斜面をよじ上って来るため3~6段程の切岸を全斜面に施した。高さ4m以上の角度47°前後で急、これほど徹底した切岸は珍しい。

北と西に延びる2本尾根は先端が崖、東と南の尾根が動線となる。南は1本堀切があるだけで弱点となるが、高野町など領域が広がるため、味方の布陣等に頼ったり包囲される程の敵を想定してないと思われる。またはある程度戦ったら脱出を図る縄張りでもあろう。逃げ道は大切!
(城の西端より奥山の様子、尾根続く)

田切城の縄張りをスケッチするに、切岸によって生じた幅2m程の平地が帯状に何段も斜面を這うため、何処を歩いているか何度も分からなくなった。修正に修正を重ねる。

途中幾度も今何段目にいるか確認しながらの作業。たかが切岸と思うだろうが、直登はできなかった。酷い藪は西尾根で、他は手入れがされ見易かった。

踏査して分かったが、尾根は切岸で遮断して道とせず、北の尾根と尾根の谷間を麓と往来するルートにしていた。その麓には陽雲寺があり、当時は館であろう。

田切城の館跡と片貝川を見ゆる。
ふと思い出した...
鎌倉時代1279年に、ここを訪れた名僧がいた。
国宝『一遍聖絵』小田切里が踊り描かれる。踊念仏を初めて行った云々場所。

これまで小田切の何処がこの場所か不明であった。絵の右に描かれた川が片貝川で、地質的に崖状の河岸となる。そして..
左の屋敷が寺の場所ではないかと想像した。

(写真左側が陽雲寺の敷地)

鎌倉時代に城が普請されていたかは不明だが、主郭の東側に古めかしい形式の虎口が残る。
そこを起点に土塁の高さや形を入念に観察していくと、あることに気づいた。それは単なる切岸だけの城ではなく、侵入する敵を行ったり来たり往復させて、常に頭上から攻撃を加え続ける巧みな城であった。近世の城郭のようで、切岸に木柵を並べれば、まんまと敵は誘導されるだろう。
(黄色線で誘導される)


田切城_02
次は地質
この角度を成し維持した土を見ゆる
ここは八ヶ岳泥流の末端にあたり、礫岩を基盤にもつ。

そこを厚く火山灰が覆った山で、その土を削って幾多の切岸を築いた。

北麓は片貝川によって長い年月削られた岩盤が垂直に露頭する。山上の3郭~本郭の下にも高さ4mで露頭して岩の切岸となっている。これは普請の際に削ったものだろう。この時に採石した石は本郭の土塁や2郭との虎口に使われていた。

(下写真は本郭土塁)


田切城_03
本郭の北側、美しい切岸ラインが冬だけ見られる。その他の季節は藪でどんな城なのかも感じ難いのでオススメできない。

さて、
粘性が高い土なので急角度に削っても崩れ難く、切岸を有効にした理由となろう。数百年経っても土で50°勾配の斜面を残す山城の土はなかなか無いだろう。

八ヶ岳泥流の末端で礫岩を基盤にもつ。そこを厚く火山灰が覆った山。3郭~本郭など城の中核となろう郭の斜面は、特に強烈な切岸を行ったため、高さ3~4mの岩が露出していた。ほぼ垂直で板塀と組み合わせると、上るのは不可能であろう。

岩を穿つ
主郭の背後にある堀切

尾根の頂上付近は、地表近くに岩盤があるため、堀切であれば岩を掘り抜く必要がある。

田切城で最も広い2郭を尾根と単純に分離させたもので、内外での高低差が無い。本来の地形は外側が高かったが、切岸で出た土を運んで盛り、2郭を高く広く普請したのだと思われる。

このような岩盤の直掘りは苦労したことだろう。


田切城_04
ふと..麓の城下を住宅地図で見ると、
「鷹野,井出,油井」さんが多く集住していた。伴野氏に関連する一族で、姓氏事典では平安末期~鎌倉時代に兄弟であったとされている。今でも概ね旧伴野荘に広く分布する姓で、そちらでは個々で多く集住しているが、小田切では3姓がそろっている。ここが派生源なのではないかと感じた。
神職にも関わっており、新海三社神社は「山宮,伴野,井出」、松原諏訪神社は「鷹野」、その他各村の諏訪神社は「井出」(北佐久では「小林」)で、1527年の籠城戦の様を思い浮かべる。