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とにかく歩いて目で見て堪能する

ボッチ城series高鳥屋城

上田市武石鳥屋[たけし.とや]
信濃国小県郡


高鳥屋城_Prologue

史料がないため経緯は不明だが、攻守を繰り返す甲斐国武田と佐久郡大井との間で養子縁組が行われた。不可侵の和議だろうか?
これにより文明3年(1471)甲斐の武田信昌[武田信虎の祖父]の子が、岩村田大井氏の養子に入って大井美作守光照と名乗り、大室[諸]を治めた。後にその息の大和守信廣は武石に住す云々。

天文12年(1543)長窪城で宗家の光台[大井貞隆]が武田晴信に生捕られて以降、大井大和守も武田に下ったと思われる。光台は家臣芦田と相木の謀略で長窪まで出陣し、そこで裏切られ武田晴信に引き渡されたのだろう。
(高鳥屋城から見た長窪城)

しかし10年後、大井大和守は越後国上杉に寝返ることとなり、この城で武田晴信と死闘が行われた。
「高白齋記」に、とある..
天文22年(1553)8月1日望月古城から長窪へ着陣、和田の城を攻め城主その他悉く討ち取り、3日高鳥屋を見物に登る、4日籠城の衆悉く討ち取る..

歴史の記録は、短い文字に残るだけで情景を与えてくれない。やはり現地を見るのが一番であろう。武田晴信がどう攻めようかと物見に登ったのが鳥屋山砦と云われる。そこから続く尾根伝いに攻めたと思われるので、同じ西ルートで訪城す。


高鳥屋城_01

南の鳥屋集落から凹状の谷間を上がると、北の尾根鞍部に到着す、ここからが城域となる。そのまま北側は下り斜面だが絶壁、よってT字路なので右へ曲がると主郭方面になる。

すり鉢の谷間なので上がって来る敵が丸見えのため、弓が随時飛んでくるだろう。この地形は武田晴信が初陣で落とした海ノ口城とソックリ同じ、あの日を思い出しながら攻略を練ったのだろうか。

主郭へ向かって尾根を上ると、直ぐに前方を岩が塞ぐ、岩盤の切岸だ。高さ10mの礫岩、岩の北側は堅堀で通行できなくし、南側に追手道を通す。

(下の写真は岩切岸の北斜面)

(下の写真は岩切岸の南斜面)

岩の上には更に櫓などを置き、堅固に守っていたと思われる。岩の上は比較的広い曲輪で、岩盤が露出するほど平地を確保しようと普請されていた。

岩曲輪は手堅いため、これを避けるように南の急斜面を武田軍が攻め上った様子が想像される。ここに堅堀を無数に刻んでおけば容易には落とされなかったろうが、当時その技巧は無かったのだろう。
ちなみに本曲輪の下で、岩を利用した曲輪を用いるのは、近くの長窪城にもあり、この地域の手法なのかもしれない。
(下の写真は長窪城)


高鳥屋城_02
西曲輪の上にある"4曲輪"は西方向からの最後の守り。これを突破すれば主郭になるが、いたってシンプルな腰郭で虎口の工夫もない。

4曲輪の下には岩盤を削った跡の切岸があるが、なんだか普請途中で止めたような形だ。この技巧的でない構えを補強しようとしていたような伏がある。

余談だが、
堀切は尾根に対し直角に掘られ、尾根を直線的に進む敵にとっては厄介だが、実は尾根と直角方向からだと侵入路になってしまう弱点がある。
西曲輪から北の堀切まで急斜面を水平移動していくと容易に北堀切の底へ到着できる。
(下の写真)
北曲輪が背後から挟み撃ちになってしまう。

これを防ぐため、途中に小さな曲輪があった。

上の4曲輪からの支援も受けて守る曲輪。なんだかチンマリして居心地が良く、長居してしまった。

さて、この西側全体の構えを見て思ったが、これだけ?である。上々はどんな構えがあるのか期待して上って行ったが、呆気なく主郭に到着し拍子抜けした。長窪城と同じく古い時代の縄張りである。先述した類似の海ノ口城よりは時代が進んだ工夫が見られるが、これでは武田晴信により1日で落とされよう。
しかしここで最初の違和感を抱き、次の本曲輪から見た景色は考えを改めるさせることになった。


高鳥屋城_03
真田安房
武田軍の想定攻撃ルートに沿った西側は、技巧に乏しい。一方で北側の縄張りは別世界。

この先、北には何があるのか?倒れた三角柱のように鋭利な細い尾根が2km続く..先端には"丸子城"があった。

(下の写真は丸子城、左が高鳥屋城方面)

そう第一次上田合戦の戦場である。
高鳥屋城は真田に再利用され、丸子城の詰城として手が加えられたとみられる。真田安房守の堅めの戦略。上田城を中心に、東は砥石城、西は丸子城で領地を上手く押さえ、かつ守り抜く事が出来る城を選んだ。

両翼は、ある程度戦ったら逃げられる口を準備していたようで、丸子城は上田城の対岸にあたるため、砥石城より長期に守備させる3城の構え。徳川家康の出陣まで考えていたのだろう。

さて、上田合戦で徳川軍が本陣を置いた八重原。台地上に丘陵が広がる。

自分ならどこに布陣するだろうかと美しい風景を明神池から見渡すと、ポツンと小さな山があった。「勘六山」と言う。麓には水場もあり、最適であろう。


高鳥屋城_04
加津野隠岐守[真田信尹]
調略跋扈
天正11年正月真田昌幸徳川家康へ恭順し、上田築城が始まる..少し前
徳川家康から加津野隠岐守への書状
「武石,丸子,和田,大門,内村,長窪など逆心企てのよし注進候。是非に及ばず雪消候はば急度出馬令め凶徒等退治遂ぐべく候」
地元で「依田窪」と呼ばれる地域、連帯性が強いのだろう。真田に従わないので家康が討つとしているが、丸子三右衛門は信尹と同じ馬場美濃守信春の婿。簡単に依田窪を手に入れたと思われないよう難渋を装う、真田昌幸の演出なのかもしれない

三右衛門の息に"海野"家を継がせ、自分の"喜兵衛"を与えて一族厚遇、そして徳川軍を共に迎える上田合戦


高鳥屋城_05
北側の備え

信濃国内では珍しい仕様で、
4筋の堀切で尾根を切り、内に2つの曲輪と
3つの岩塁を置いた一体的構え。

自然の尾根を削平した確かな曲輪で、岩塁は曲輪の後方に置いて堀切の外法を担う。下り易く上がり難く、最奥主郭の内法は20cm前後の小さな割石を積んでいた。

側方へは堀切から堅堀を続けて刻み侵入を阻害
堀切の比高は主郭側から、
①4.4﹀0.6m

②4.3﹀0.9m

③2.0﹀1.0m

④3.2﹀0.6m

単に深くするより鉄砲による戦い方を考え抜いたものと思われる。真田昌幸が関わったものであるならば、晩年の経験に裏打ちされた山城の形として貴重になろう。


高鳥屋城_06
南側の備え
高鳥屋城は3方向に尾根があり、西は自然な1ヶ所の崖切岸で心許なく、北は人工的な複数の堀切で堅固。一方の南はその中間的な構えであった。

堀切を2本刻もうと尾根を掘ったが、岩盤が出てしまったため、崖を整形した小段付きで1本の深い堀切5としたようだ。

堀切5より更に南の麓側は、尾根の側面を切岸して狭くした長い土橋。

敵は縦列で進み、近付いたところで順に撃たれるのだろう。切った跡の斜面に岩盤が露頭していた。

その先には簡素な堀切を1本設けているが、外法は石塁により比高を確保した簡便な堀切にすぎない。

城の北側にも石塁を法にした堀切があり、同時期の工事となるだろう。


高鳥屋城_07
本曲輪を巻くように、その下には尾根が延びるS-W-Nに長い帯郭を配した。どちらの尾根から敵が来ても柔軟に対処できるようにしていた。

本曲輪と帯郭との土塁は2m程で、土塁の上には板塀の基礎と思しき石が多く残る。

西方向から、門を置いたとみられる礎石を辿って行くと本曲輪の南にある虎口に到達した。やはり西からは補給、そして北への備えを主眼にした城なのだろう。

高鳥屋城の本曲輪と南麓の集落に、城を紹介する看板が設置され、今は骨組みだけになってしまった旗も寂しく立つ。真田丸の時に盛り上がったのだろう。

これまで多くの人が描いた縄張り図を見てきたが、間違い、簡略化、不足などが散見される。しかしこの縄張り図はレベルが高いぞ!


最後に、

写真の中央やや左が高鳥屋城、その下に見える瓦葺き屋根は信広寺になる。大井大和守信廣の菩提寺
城跡を見た後、史料などを丁寧に読み込んでいくと、私の推論であるが、次の事が起こったのではないかと想像する。

👉天正8年『蓮華定院』史料に「先代より武石の郷配領内」と大井竹葉齋正棟の名が残る。
「配領」なので武田から与えられた土地。「先代」を信廣に比定すると、武田家臣となった大井大和守信廣は、実の息子である和田城主の大井信定が村上と謀って武田に謀叛したため、責を取って切腹。高鳥屋城に籠っていた村上勢等も討たれた。代わって岩尾城の大井信綱(後の竹葉斎正棟、大井行真の実子である)が養子で入り、武石領を継いだ。武石館と中山城を拠点とした。
武田滅亡後は真田の支配下となるのだろう。