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とにかく歩いて目で見て堪能する

ボッチ城series諸城[富士見]

小諸市 諸[もろ]
信濃国佐久郡


諸城[富士見]_Prologue
はじめに、地元では遠く小さな富士山が見えるので"富士見城"とも呼んでいるが、実は諸城の歴史と地質を鑑みると、反対側の浅間山系の方が密接であった。
ここは飯縄宮が置かれたように修験の世界に位置付けられ、"高峰山頂の岩"と"城の岩"の繋がりを見出だしていたのではないだろうか。
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諸城から200m程離れた山腹にある霊場
飯縄宮
背後の崖と一体になり、なんだか清い氣が流れる。
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諸城[富士見]_01
佐久郡中央にある小田切城の古めかしい切岸の段々を見た時..この城を思い出した。
「土」の段々に対し、「石」の段々である
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浅間山の裾野にある溶岩流の小山に築かれた史料に無い謎の城。縄張り的に武田云々より前の古い城になろう。
南麓に「諸」という地がある。泉が湧き東山道清水駅に比定され、相当長い時に人の営みがあり、そしていつしか背後の山に築城された。"小諸"という名の原初の地なのだろう。
周辺にこの様な石積の城は無い為、戦国末期や近代のものとの説もあるので、その辺りを踏まえて城を見てみたい。


諸城[富士見]_02
では、石の切岸を観察する。
切岸の石積高は2~3mで、確認した限り全段が石積である。
30cm未満の小ぶりな石を使用、
「積み方」は、主郭付近で人が多く歩く箇所の石積は"落し積み"の範囲が散見され、崩れていたのを近代に修復したのだろう。最も崩れ易い、無造作に置かれた笠石の復旧は全体に及ぶ。
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"布積み"を基本にしているようだ。
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南側は斜面が急峻で、土が殆んど無く岩盤。自然風化で板状に割れた石が多いため、これを直接岩盤上に積んでいた。

一方で、緩く土が多い西~北斜面は人が割った石が多くを占め、岩盤に張ったような構造で麓まで10段程続く。
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さて、石積は中世か?以外なのか?の疑問
まず城域から外れた南の自然斜面を観察しよう。
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風化して割れた10~80cmの安山岩がゴロゴロしてガレ場の如く。大きな石も風化で亀裂が入っており容易に割ることができそうだ。
大量の石材の存在を確認、築城前の山の様子を表すだろう。
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城中に露頭した岩ラインと曲輪の広さが頂上のノッペリ度を想像させる。鯨の背中のようなイメージ。緩いので敵が上がれないよう岩盤上に積んで段差を設けて曲輪を普請した。土が著しく少なく曲輪の土厚は平均30cmぐらいか。
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次に、
少し離れた飯縄宮の参道両脇に多くの石積がある。30~100cmの大きめな石を使った本格的なもので、高さ3~4mになる。
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古い大規模な斜面崩落の地形痕跡が見られ、その対策と修景を兼ねて積まれたもの。恐らく戦前の大里村の工事かと想像される。

一方で、城の西~北側は土が多く、本来は土で切ったままで良いのだが、その土が軽石混じりの火山灰なので、雨で崩れ易く、大量に余っている小石を積んで切岸形状を保ったのだろう。石にすることによって、高さは低いが垂直の切岸が出来上がる。
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また、
そもそもこの地域は、耕作地に石を積む風習でもあるのかと、北側にある後平の田畑や別の山を歩いて見たが、石積は全く無く、城跡だけに集中しているものだった。

以上を考えると、
築城に石積は不可欠の要素と考え、縄張りとリンクした範囲の石積は、中世の普請時において既に築かれていたと思われる。その後500年以上が経ち、何度も崩れ復旧されているのだろう。


諸城[富士見]_03
縄張り
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城の南側は比高150m傾斜34°だが、北側は30m傾斜21°で緩い。低い北側に堀跡などは無く、刻まれた複数の切岸がなければ城として成り立たないだろう。地形的に傾斜が緩い部分には切岸が堅実に刻まれていた。恐らく切岸と木柵が四重五重と重ねることで守っていたのだろう。
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東への尾根方向は、土塁+堀切を2箇所設け遮断するが、1つは埋められていた。本曲輪と2曲輪の間に形跡が残されている。
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反対の西側は尾根の末端状で、腰郭を段々に設けるが弱い感。全体的にシンプルな1400年代を彷彿させる構え。
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飯縄宮の参道が追手道と思われ、美術館~大堀切手前までは林道で乱され遺構かは不明。旗塚などと案内にあるが、作業道を造成しており、邪魔な土砂寄せていたり、桜など植林した跡にも見え何とも言えない。
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縄張り的に考え、本曲輪と2曲輪位置は案内板と逆にした。
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ここを詳しく観察すると平地に岩盤が露出し、幕末~明治と思われる矢穴があった。
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石を採石していた可能性があり、本曲輪が縮小されるなど形状が大きく変わっていると思われる。だから間にある石積は近年の甘い積み方のため、崩れているのではないか。
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諸城は地侍うしの戦であれば凌げるが、近隣の村上や海野氏との戦では1日持たないと思われる。
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