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とにかく歩いて目で見て堪能する

ボッチ城series遠征編!【小田原城】

小田原市
神奈川県[相模国]

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誰もが知る北条氏の居城
多くの発掘調査と復元等により、今さら紹介することも無いものと思って訪城したが、どうも分かり難い状況となっているので、Upすることにした。


まずは、
Episode①_【天守閣】
この石一つ一つに市民の寄付金が込められている。終戦後の昭和25年、
「石一積運動」[いしひとつみうんどう]により、崩れたままの石垣が復旧した。
関東大震災から時間がかかったものだ..
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基本的に布積だが、詰石が全く使われていない。かなり良質な安山岩で亀裂,剥離,風化が全く見られない。
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小田原城天守閣に通じるスロープ。
建物への出入口になる。
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ピラミッド建設の石材を運ぶ坂路のようで、近代のものかと思い、疑り屋根性で調べると..江戸時代の絵図にキチンと描かれていた。上がってスロープの左側には土塀があったが、右側には無かったので、けっこう怖かったと思われる
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小田原城の北条時代は「土」の城であった。
江戸時代に創建された天守閣の海側は立派な石垣が巡る。しかし山側は「土」だった名残が見られる。
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本丸は「小峰山」に築かれ、その上方のみに石垣を巡らせていた。常盤木御門と天守閣の部分以外は、未だ関東大震災で崩れたまま斜面に石が散乱している。
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北条時代の遺構からは20cm内外の玉石が使われた石積が発掘されている。武家屋敷の塀垣の程度のものに過ぎない。
その後、稲葉氏が小田原を拝領し、初めて石垣で天守台を築こうとした際、請け負った職人からすると、「石垣を積んでも大丈夫か?」と心配になるだろう。まずは地下水の状態と地味を探るため井戸を掘る。
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本丸絵図を見ると、あったあった2本も、今は辛うじて1本残る。(下写真の右上にある鉄格子)
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しかし関東大震災で本丸にある石垣は、ほぼ全てが崩れてしまった。上図は本丸が普請される前の小峰山を想像したもの。茶色線から外れた部分は盛土になるので、地震で大きく崩れたろう。


小田原城天守閣の東側には、
「付櫓」がある。
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天守へ入る前の玄関のようなもので、間には短い渡廊下がある。その構造にするための石垣のデフォルメが楽しい。
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例えば東~北東から見ると付櫓が見えない。
やけにほっそりして、何だか寂しいものだ。美センスとして重要なのが理解できる。
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最後に天守閣へ上った。
本来は存在しない観光用の天守廻廊から山々を眺める。北条時代にも高い櫓がここにあったろう。豊臣秀吉に攻められ、籠城して迎え撃つ
"北条氏直"の気分...

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「中央に父ちゃん」挟んで、
「左側に左衛門佐氏忠」「右側に右衛門佐氏光」「これだけは拘りたかったのよ♪左右完璧!」
「新九郎も頑張ります」


次に、
Episode②_【御門と馬出】
天守閣のチラリとした構図に築城への美センスを感じないだろうか。
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稲葉正勝にアッパレを。
銅御門を通って二ノ丸へ入った者へ魅せるための工夫であろうリズム。
チラリと立体重厚感を魅せた後に、もっと見たくなって、近付いたり、二ノ丸御殿へ向かうと、小田原城天守閣は見えなくなる仕組み。
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ここだけ!

では逆に離れて、銅御門から外側へ出て見ても天守閣は見えない仕組み。
馬出御門と銅御門を通り過ぎた者へチラリと魅せるラインがある。残念ながらラインを外れると見えないのだ。戦いの無い泰平の世では、縄張り云々より、美も優先されるのだろう。

小田原城にある御門の"名前"
 銅門[あかがね]
 鉄門[くろがね]
昭和~平成に再建された「銅門」(下の写真)、そして本丸には崩壊したままの「鉄門」がある。
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どこかでこのセットメニューに覚えが..
そう甲府城だ!
石垣の安山岩と赤味までも似ている。甲府城では「鉄門」が再建された。(下の写真)
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え~小田原さんが銅なら、甲府は鉄で...といった調子だろう(冗談)


北条氏は「馬出」が有名
小田原城の馬出が是が非でも見たかった。
他の近世城郭では見られない形式で、それは現在の城郭が造られる前の北条時代を引き継ぎ、稲葉時代に若干整えられた作品だからだろう。
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東海からの敵に備える場所になり、左右から馬で横撃するもの。中央は馬屋曲輪として江戸時代になっても使用した。名残だろう。
縄張りの特徴として、形による住吉橋の往来と、土塁により中の移動が見えないようにした構造。
同じ北条氏の支城であった「忍城」絵図の馬出と比べてもらいたい。曲輪に残存する土塁を重ね、北条時代の姿を想像す。
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(下の写真は小田原城)
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(下の写真は忍城)
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ここで少し言っちゃいますが、
小田原城本丸のすぐ北東にある
「御用米曲輪と弁才天」の構えは、
岩槻城の本丸のすぐ北東にある
御茶屋曲輪と外曲輪」と同じ構えなんですよ。


Episode③_【地形】
天守閣の背後は重要だが、小田原城は県道+鉄道+市道となっている。失われた遺構、地形線や古地図を探ると昔こんな感じだったか。
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大正時代の鉄道建設で地上に建物がある区間はトンネルに、そうでなかった天守背後は、レール勾配に合わせて掘削された。
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大量の土が出る、ちょうど南東に外堀の弁天池があったので埋立地に用いた。

伊勢氏綱さまが分祠した弁財天様[1522年]
翌年に「北条」に改姓した。
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外堀となる沼池に島を築いて祀ったが、大正時代の埋立により何処ぞえ移されやと探すと、高校の裏、御用米曲輪土塁の間、空堀に移しおわした。
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ところで、
この弁天島の位置、北東[鬼門]とするのは現在の本丸になる。▶北条氏綱は現在天守閣がある小峰を本曲輪として築城したのだろう説。
ここから..龍の三つ鱗が始まる

小田原城を知るには、まず地形を知る必要がある。周辺一帯が住宅地や学校に利用され、非常に地形が分かりずらくなっている。
まず、
小田原城は"穴城"と言っておく。
普通の城は山の最高所に主郭を置くが、小田原城は逆だった。
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天守のある小峰山を本曲輪にした場合、八幡丘陵から見下ろされてしまう。敵を防ぐ構えとして許されない事だろう。
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では丘陵の先端に曲輪を普請しても、更に山側が高いので、堀切と曲輪が限りなく続く..それでは守備の兵が足りない。
北条の領土拡大に伴って、拡張されていった説が成り立つ。

小峰山
"ちいさな峰"の意..になるだろう。
箱根山の噴火による火砕流がドドーと激しく流れ下り、偶然大きな固まりがここで止まった。
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その後、表面が火山灰でパッケージされ、凸起伏が小田原城の本丸に用いられた。
同じ様な山が北1kmの城山1丁目にある。
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これは古城跡?恐らく街道の脇位置だから豊臣との戦における総構の出城だろう。


Episode④_【縄張り】
それでは私の目から見た小田原城
こんな感じ
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曲輪は、
北条氏綱から氏康の時代をイメージした。
この図の作成は激疲れた..よ
今の本丸周辺の近世小田原城は10万石の城に過ぎない。一方の北条は200万石超えると云われる。その城は巨大だよ。
本丸を中心にしたリング状の部分と、水堀の範囲が江戸時代の小田原城。そこを見下ろす左に長く延びる連郭式の部分は北条時代も使われていた範囲。江戸時代では留山で立入が禁止されていた。豊臣秀吉による緊張の高まりで、南側に東西方向に延びる赤茶色の堀と、最も外側の総構が築かれたと思われる。

近世の稲葉と大久保の小田原城しか知らない人からすると、なにを"穴城"言ってるの?と思うだろうが、北条がいた時代の小田原城は、城の中核ほど低い位置になる。八幡丘陵への坂はキツイ...これ切岸なのだから楽しもう。

小田原城図の補足
北条時代の曲輪までハッキリ記された絵図が残っていないため、経験と地形や古地図を参考に描いた。濃茶色は空堀で、普通は山麓に掘るものだが小田原城は斜面中腹に縦横と掘るため手間取った。概ねが障子堀で非常に深い。
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二ノ丸の部分が北条時代はどうだったか迷うものであったが、馬出と同じく「忍城」の縄張りを多角的に見つめていると見事にハマったため、参考にさせてもらった。
以上、総構よりも、あまり知られていない城郭の部分に力を入れて描かせてもらった。


縄張り的に気になる場所が
2点ある
敵ならここから攻める..だろう。
1つ目は尾根最高地点の「水之尾口」
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小田原城総構の西端にあたり、ここから先は下り斜面の不思議な地形。正に頂上だが幅50m程の平尾根に一本道と脇に畑が続く長閑な風景。
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全周を空堀で固めていた出城で、豊臣軍との籠城戦では佐野左衛門佐氏忠が守備。下野国の唐澤山城からやって来た雑兵の気持ちを思ふ。
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2つ目は城山1丁目
前掲で紹介したもう小峰山と別のもう1つの火砕流の流れ山。小田原駅で帰ろうとしたが..気になって足を引き摺り登った。
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今は150軒程の住宅にパッケージされて雰囲気が無いが、攻め手の豊臣軍は「かく山」と記す。
真田丸のような地形で、久野口を押さえる出城だ。総構の空堀を北に沿わせ比高20~25mで堅い。北条氏房が守備したので「岩槻台」とも呼ぶ。


Episode⑤_【空堀
とはなんぞや
ある箇所での発掘調査から判明した空堀の断面を描いてみた。普通は山麓に掘り込むものだが、小田原城では自然斜面の中間に掘った。
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すると斜面の低い側は堀底と高低差がほぼ無くなってしまうので、ここに土塁を築いて堀に高低差を持たせた特徴がある。
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これをもし石垣にしたらどんな感じになるのか比較。"江戸城の石垣"をイメージして穴太衆の技算術式で線を入れた。
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すると...
石垣とあまり変わらない斜面となった。川水の無い台地上では、如何に北条氏の空堀が有効だったか分かるだろう。
この堀底に"障子"を等間隔で入れ、空堀内での横方向の動きも阻害する狡猾さがある。鎧ではジャンプしても越えられない2m弱となる。
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敵にとっては、下りる恐怖は相当であったろう。銃弾が飛び交う中、土俵を大量に落として徐々に埋めて前進していくしかない。
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小田原城空堀とは、敵に下りる恐怖を与える地形,地質を巧みに用いた技術であった。


以上で終わる、如何であったろうか。小田原城を地形と縄張りの視点で見つめ直してみた。新たに感じた方がいるのであれば、自分でも見て小田原城の研究を磨いていってほしい。
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