ボッチ城series中山城[武石]
中山城_Prologue
武田信玄は、天文22年(1553)8月1日和田城の城主その他悉く討ち取り、続いて4日高鳥屋城に籠城の衆を悉く討ち取った(高白齋記)
👉この経緯については、「ボッチ城series高鳥屋城」の最後に考察させてもらったので参照されたい。
ここで、両城の間に素晴らしい山城があるので紹介する、それが中山城。武石郷の真ん中に突き刺さったような位置の山なので"中山"と呼んだのか。麓には武石館(方形で現在は消滅)もあり、ここは中世に武石郷の中心地だったと推察される。
中央に信広寺、その左やや向こうの山が高鳥屋城
後述するが、地形と縄張りの考え方が和田城に類似し、そこに後年の技巧が一部加えられたとみられる城である。
中山城_01
中山は、麓から主郭までの山の角度がどこも急で、概ねが一定勾配になる。細長い尾根の先端は三角錐の如く。急で手を使わないと上れない区間も多い。
北側は武石川に沿った崖状で、そこに沿った細い東からの尾根が追手道になろう。樹木が無ければ恐怖を覚える。南側は北側よりやや緩いが登れるような勾配ではない。(👉この地形は和田城の両斜面と同様だが、和田城の片斜面は上ることができる)
北側斜面は崖状
南側斜面
追手道は自然のままで、多くの人が往来した形跡が見られないため、この城は日常で利用されたものではなく、非常時に避難し、籠る城だったと思われる。
追手道の岩尾根
追手道を上がって行くと、急勾配斜面の中間に3段の小さな郭があった。ちょうど小屋が幾つか置ける広さ。主郭から上って来る者が見えないため、出入りする者を監視する関所的な場と思われる。
よく観察すると、一番上の段に岩を穿った跡があり、地下水の染み出しが見られた。飲水を確保する郭でもあったのだろう。
3段の小郭
そこに桶などを置いておき、ポチョポチョと滴る水を溜め、上の主郭まで運んだのだろう。ちなみに、主郭一帯には水気が全く見られなかった。
小郭の水場
中山城_02
【地質】
中山は全体が凝灰岩の塊で、本郭の"北東角"にあたる付近が頂上であったと推定される。
褶曲によって角度70°程の層状に剥離しており、厚さ15~20cmの板石を鉄棒などで強引に剥がし取ることができる。堀切、切岸を普請する際は石が大量に出たことだろう。
中山城_03
【縄張り総論】
この城は、北東麓にある子檀嶺神社(こまゆみね)から上って来る敵に対するものである。長い尾根の両側斜面は絶壁で途中からは上れないため、追手道(神社の階段を上って右手へ行き、獣柵を通って尾根筋を上る)さえ防げれば良しとしたのだろう。
中山城の縄張り構成を概観すると以下の如く
👉麓からーー❶関所的な小郭ーー❷3段の郭ー❸土橋ー❹堀切ー❺本郭ー❻堀切ー❼避難小屋的な郭ー❽堀切ーー山奥へ続く...
実は、同じ構成を採用した城が、近くの和田城になる(和田城も❶~❽の順で同一構成、❺の規模を大きくした。これは地形的な理由による)。この共通した部分が天文22年(1553)の謀叛より以前までに整えられた依田窪大井氏の築城術になると思われる。それ以外の共通しない、いわゆる特徴を探しながら見るのも、また楽しい。
中山城_04
【縄張り①】本郭へ
さて、縄張りを順にみていく。
3段小郭から更に斜面を上って行くと、勾配が緩くなる。そこに段差が1.5m程からなる単調な3段の郭が待ち受ける。尾根の先端になるため、見張り台的な役割を持つだろう。
防衛というよりは、ここに平地を造り出すことを目的にしたような郭で、そこに切岸や小さな堅堀を刻むことで、郭の形を整えたとみられる。
見張り台郭
堅堀で整えた
3段郭の先は本郭に向かって自然な尾根が続くが、左右を切岸によって狭く整えた土橋であった。長さ20mほどになり、その先は険しい堀切の刻みによって遮断されていた。
土橋
本郭手前の堀切①
堀切①は比高4.7m程になる。絶妙な角度と高さで、戦で越えるのは無理だろう。
長い堅堀
堀切から両側へ深さ1.5m程の堅堀を長さ50m以上刻み、斜面へ下りて回り込む敵を防ぐ。本郭の石塁との上下2段で迎撃するもので、とても直進などできない。
真っ直ぐ堀切を突破できなかった敵は、堅堀を越えようと斜面へ下り迂回しようとするが、越えた先には本郭の南北にある腰郭が、待ち受ける。
中山城_05
【縄張り②】本郭
本郭で最も目に引くのが"石塁"
2m以上ある高さも凄いが、全周を囲む。他の山城では背後だけ、半分だけなど多く、いつも「全周を囲むべきだろう」と思っていたが、ここは全て囲っていた。400年以上経った今でも綺麗に残存しており、代々の地元民の関わりに感謝する。
近隣では真田の松尾古城の全囲みがあるが、簡易で石塁上には乗れない。中山城は武者走り幅もあるがっしりとした本格派だ。
何故これほどの石塁ができたかというと、地質の説明で述べた通り、中山は岩盤であり、かつ節理によって板石が量産できたからである。和田城でもこのような岩質であったり、多くの表土があれば、全周を土石塁にしたかもしれない。
中山城_06
【縄張り③】腰郭
本郭の南北には、堀切の利点を機能させるため、お手本のような腰郭を設けていた。北ー東ー南とコ状の帯に配置されているが、それぞれの高さが違う。一番高い東を中心に南北を補佐するものだった。
北側の腰郭
北側は崖状だが、本郭との間に人が入り込めるような斜面が残るため、腰郭を1段入れ、更にその下に横堀(薬研だろう)を入れる徹底ぶり。この郭は概ね、堀切で出た残土を盛ったと思われる。
北側の2段目の腰郭のように見えるが、機能的に横堀とみた
一方の南側は、麓まで見通せるよう斜面を整形し、上に腰郭は1段設けた。岩盤を切岸し、その隙間には石積を補って、南側斜面からの敵を防ぐものだった。
南側の腰郭
腰郭の石積
中山城_07
【縄張り④】本郭背後の2重堀切
今の時代、堀切から本郭へ上がる事が出来る山城が多い中、この城の堀切は上れない。地質的に斜面は往時に近い角度を保ち続けていると思われる。
本郭側からの比高は以下のとおり。
1重目 5.5m﹀2.4m
2重目 3.2m﹀2.2m
1重と2重の間
1重目の断面
中山城_08
【縄張り⑤】二重堀切の奥へ不可思議
二重堀切の向こう側、隣接した所に少し不思議な縄張りがある。それは本郭の背後において、二重堀切に付属するかのような、窪んだ平地。なんだろう
やや左手前の窪み
地山を堀り込んだもので、周囲が低めの土塁に囲まれたようにも見える。水を溜めた池にも見えるが、湿り気が見られず、貯水能力があるのか疑問のところ。(縄張り図は郭の赤色にしたが、池の青にすべきかもしれない..)
溜水池?の奥には小山があり、その全体にわたって造り込みがラフな郭が広がる。城の防衛というよりは、陣や建物を置くために整地しただけのように見え、戦と関わりのない者達が、臨時的ここにあった建物等へ避難した場所とも思える。
奥のラフ郭
👉ラフ郭の北側に、形を整えた扇形の小さな郭が下にある。その先の北東には下って行く道のような形跡が見られる。麓は武石川があるため、そこまで通じているか確認はしてないが、このルートが搦手道または追手道だったかもしれない。
扇形郭から道筋痕
ラフな郭が展開する小山の先は、麓で一重の堀切によってしっかりと区切り、城域はそこで終わる。高低差がそれほどない、簡易な堀切であり、多くの敵の侵入を想定したような構えではないので、奥に続く尾根との出入を監視するものなのだろう。
最奥の堀切
以上により、中山城の全貌を紹介した。
戦闘を主体に構成されたいわゆる"城"の部分と、その奥に避難した者達を置くための"居住"の部分から成ることが分かった。その間には水を溜めた可能性のある凹部もあり、興味深い。
👉和田城の縄張りと共通性の高い構成となっており、依田窪大井氏の築城術を垣間見ることができる良質の城なのではないだろうか。両城とも居住部は後年追加されたようにもみることができる。
籠城するほどの強敵に接した事象をみると、武田、織田、徳川の侵攻いずれかのタイミングにおいて追加で普請されたものなのだろう。
本郭にて、わたし(影)笑
完
【中山城の場所】