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とにかく歩いて目で見て堪能する

ボッチ城series前山城

佐久市前山[まえやま]
信濃国佐久郡


前山城_Prologue
歴史を紐解く場合は、現地で確認する大切さを実感した。
信濃国佐久郡に前山城がある。
既存の縄張り図を見て、なんて古めかしく弱い城だと理解していた。しかし麓から斜面、城郭まで隈無く見た時、大きな違和感を抱いた。そして前山に関する史料を読み返すことによって、認識が間違っていたことに気付いた。
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前山城に関する史料
①1540年武田の板垣駿河守が伴野荘内の臼田や入澤などの城を次々と落とし前山の城を築き在陣す。伴野氏復帰を大義名分にした大井氏の一掃作戦なる
②1543年武田晴信は前山を経て長窪城を攻め落とす
③1546年武田晴信が大井氏の内山城攻めで前山城に入った
④1548年臼田を打立ち前山を攻め落とす。敵数百人討ち取り、城普請始る。桜井山の御判形伴野へ渡す

☞これまで前山城は伴野氏の居城と多くの書物等にあるため、当然古くから城があったと固定観念を常識のように抱いていたが、上の史料を見て気付く人もいるだろう。
板垣信方が佐久郡大井氏を牽制するために陣城のようなものを①築いたが、軍が退いた後に奪われるため、1548年に武田晴信が「総普請」として本格的に築城したものと読み取れるのではないだろうか。これに伴い前山を武田の直轄地にし、伴野貞祥には替地として桜井山を与えたのだろう。
そして武田家が内山城へ郡の拠点を整えた後は、伴野貞祥に前山を守らせたのであろう。それが代々伴野氏の城であるかのように認識されたと思われる。既に伴野氏の城が存在していれば①④と二度も普請を行わないだろう。

前山城_01
実際にどんな縄張か見てみよう。
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基本形は前面の腰郭多段、背後の堀切。技巧で特筆すべき点は無く、これだけである。
しかしこれは地形に合わせたものだった。伴野氏は東西に細長く、南北斜面は急な尾根を選んだ。
(下写真は北側斜面)
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(下写真は南側斜面)
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麓を全部歩いてみたが、なかなかの急斜面ばかりで入り口が限定される。❶南東に尾根末端状の低い登山口があるがやや急。
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❷南の伴野神社の背後からの口があり、腰郭を築いて守っているが、ここが弱点であろう。
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他にはどの山城でも侵入口となる❸西の山奥の尾根続きからとなろう。
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戦国末期に落とした依田信蕃は❷❸から攻めたのではないかと推察する。


前山城_02
切岸
既存の縄張り図だと、城の東には無数の切岸が円弧のように展開していた。古い縄張りだと感じていたが、現地で藪を掻き分け全段を見たところ、非常に優れた構えだと知った。
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斜面が緩いため切岸によって生じる平地の幅が広くなり、多くの敵が一時的に留まれる空間となってしまうという見方もあるが、一つ一つの段差が4~8m高くあり角度も50°近く、越えて行くのは容易ではない堅い構えであった。
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そもそも麓の城下から最初の一段目の切岸群へは、崖状の高さ15mの自然斜面があり上ることはできない。よってこれら雛壇は兵が駐留する小屋などが置かれた腰曲輪であり、武田殿の板垣駿河守が東の大井氏に対して睨みをきかせた布陣の跡ではと思われる。


前山城_03
虎口
武田の初期虎口形式になろう。
一言で言えば、スキーモーグルのコブにそっくりである。
南東の尾根末端状からが追手口と考える。斜度38°前後の急道になる。本曲輪までに虎口が4箇所確認できた。この形式がこの時代での武田の虎口の形と考えられ非常に参考となる。
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特徴としては、曲輪で道を両側に挟むように配置し、その間に城門を置く。上っていくと左側の曲輪を手前に出し、右側を奥にズラして高くする。こうすると敵は、坂道の中で右に曲がって左に曲がってと食い違いに進まなければならない。

前山城_04
武者走りと名付ける。
この城で最も標高の高い場所。
尾根頂上に適度な広さの本曲輪があり、その手前に堅い虎口が構える。ここを突破したらもう落城だろう。後の時代の虎口と違い、高所にある門を見上げるような単純構造になる。
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虎口の脇にある本曲輪の東端は、武者走りに板塀があり雛壇を見下ろす守りの要。
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前山城_05
本曲輪と2曲輪
四つ目の虎口を通過すると本曲輪になる。中間の北側が堅堀で抉られているため足跡のような形。👣
比較的コンパクトで、建物があったとして100人ぐらいしか入れないもの。
その背後の5m下に50人程詰められる「2曲輪」がある。本曲輪との二段構えのセットはなかなかのもの。
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唯一技巧として感心をした箇所になる。今は南側にお互いを連絡する道が造られてしまったが、本来は北側が通路であろう。
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前山城_06
「2曲輪」背後の大堀切
箱堀で礫岩を掘削したもの。小田切城の堀切と規模ともにそっくりである。築城当初の早い段階から造られていた堀だと思われる。
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普請に用いた土質は下のとおり
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前山城_07
本来はこの堀切から東が城域であったと思われるが、伴野神社がある搦手口からの弱点を補うため、西続く尾根に「西曲輪」と「二重堀切」を追加したと思われる。長細い西曲輪では100人程が詰められ建物があったと思われる。この城で最も広い曲輪になる。
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搦手口は尾根の鞍部で西曲輪に至る。しかしここより山奥側の山が高いめ、ここに小さな曲輪を置き、二重堀切を設けて守る必要があった。
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二重堀切周辺の構造は、自然地形そのものを活かすように、地形に合わせて堀切が掘られ、掘った土で土塁が造られていた。まるで近代戦争の塹壕跡のようだ。
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武田信玄の若き頃の城がどのようなものであったか、貴重な現地遺産になろう。虎口、曲輪の細工、堀切、縄張り全体への考え方、いずれも参考になるものばかりであった。
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