oomi blog

とにかく歩いて目で見て堪能する

ボッチ城series大蔵城[大倉]

長野市豊野大倉[とよのおおくら]
信濃国水内郡


大蔵城_Prologue1
芋川荘を中心とした鳥居川以北の城を巡り、色々と調べる内に..この城を見なくては完結しないと思い始めた。。

f:id:oomikun:20211223190421j:plain
1582年の信濃国争乱、激戦の地
多くの民が殺された記録があるので、これまで訪城を避けていたが、遂に行ってみた
織田軍の侵攻、武田家滅亡

☞上の写真は大蔵城と鳥居川に架かる大倉橋を写したもの。この付近は古くからの渡河地点で、突き出た大蔵城が山右手奥の芋川方面への口元を押さえていたのが分かる。
f:id:oomikun:20211223191050j:plain

さて、一般では大倉城としているが、
城名表記は『信長公記』に準ず
「大蔵之古城拵、いも川と云者一揆致大将楯籠...森勝蔵懸付...大蔵之古城にて女童千余切捨、以上頸数弍千四百五十余有」

☞"古い城を拵え、芋川を大将に民が籠った"とある。その遺構が今残るのだろう
これまで公開されている縄張り図を見ても一般的であり、鳥瞰図を見てもデフォルメされているので、普通の山城だろう..と思っていた。
しかし違った、凄城だった。
f:id:oomikun:20211225074846j:plain


大蔵城_Prologue2
信濃国には多くの人が亡くなった記録のある城が幾つかある。
高遠城、小岩嶽城、志賀城、大蔵城etc
霊感があるとは思わないが、ある城のある部分に近寄ると空気の圧迫を感じたり、肩や足が痛くなる時がある。御経を覚えたのもそのため。
息を整え、心は自然に溶け込み唱えると、
スっと痛みが無くなること度々。
これまで麓から何度も眺めていた。
でも未訪城
自分でもよくぞ決心したなと思いつつ(←おおげさ)地形図をじっと見つめ、麓を一周しながら相変わらず人が行かないような場所から上って行った。
今回も二ノ郭の石積付近で感じ、ここで何があったか考えてしまったが、技巧の感動の方が超勝って訪城を楽しんでしまった。
(↓この辺りです)
f:id:oomikun:20211225125911j:plain

森勝蔵という人物
美濃国の者、織田信長の家臣
彼は粘着が強い。
本能寺の変信濃国から急ぎ撤退したのもあるが、この時に敵対をした者達に遺恨を持ち続けた。勝蔵は長久手で戦死し、跡を継いだ忠政は豊臣政権に川中島藩への転封を願い出た。
ようやく1600年に叶い、背いた者を探しだし磔にした記録が残る。
そして厳しい検地により、再び一揆も発生。そして徹底的に鎮圧して、3年経たずに再び転封。
「ふ~用は済んだ」といったところか..
迷惑で粘着が酷い一族


大蔵城_01
まず城の欠点から
両sideが急斜面の長い尾根。
悠久の長い年月で鳥居川と嘉児加川に削られ続け、上る者を阻む。
f:id:oomikun:20211224075500j:plain

と、言いつつ意外に脇から上れる城が多いが、大蔵城は無理。連郭式で前と後のみが攻め口となる。
f:id:oomikun:20211224075515j:plain

通常は城の前を堅めるものだが、
この城は "後ろ堅固" であった。
前から攻められたら後ろは退路となるが、尋常ではない堀切が3本遮り、梯子などで登り降りしている内に多くが捕まってしまうだろう。
歴史もそのようになった..天正10年

【訪城】
まず、
縄張り的に城の東先端になるであろう麓に向かう。坂を100m程上がって行くと住宅が建ち、岐路には"私有地立入禁止"の看板が立つ。
城に夢中でズカズカ入る人がいるのだろう。
下に縄張り図を掲載したが、山の角度や位置、起伏を見ると郭跡と思われる。住宅の造成痕を取り除いて想像すると3つの郭であろう。
f:id:oomikun:20211224075545j:plain

さて、
用意された通常の南東ルートで行くのが嫌なので、東麓から嘉児加川沿いを歩き、城の北側斜面の形状をずーっと見ていく。
結局西側(山奥)の搦手口に到着、縄張りの西側切れ目の地形や、ここまで城とした理由を探りながら入ることにした。
(写真の左手が大蔵城方面)
f:id:oomikun:20211225130646j:plain

搦手口側からも幅1m程の歩くルートが主郭へ整備されているが、周辺の漏れた遺構や地形を把握するために藪に分け入る。
f:id:oomikun:20211225130957j:plain
近代は畑であったろう荒地が広がり、城の方向に向かって尾根が狭くなっていく。藪の中に池があって、地形的に想定していなかったので危うく落ちそうになった。籠城の際の飲用か?
f:id:oomikun:20211225131209j:plain


大蔵城_02
縄張り
f:id:oomikun:20211225201407j:plain
現地にも縄張り看板はあるが、
私の解説付き縄張り図です。
▷西の大堀切⑤④③
▷間にある三重堀切
▷本郭から東への古いディテール強化と石塁の関係、等々が特徴の山城。

東の①②③は住宅地だが、地形から古い館のような跡で、南に嘉児加川を流した池があったと思われる。(下の写真付近)
f:id:oomikun:20211227180049j:plain

太田荘島津氏の古城時代の後、織田軍に対する一揆勢が作事したと思われるものに、一般的な1400年頃の古い縄張りから今残る縄張りを差し引いた、
□大堀切⑤④②の新設
□三重堀切の追加
□本郭の盤上げ
□東郭の盤下げと想定した。

山城の堀切深さは一般的に4m台が多い。概ね埋まっているので+1mになるだろう。他に深さ1mの浅いもの、連続で設けるものも多い
大蔵城の堀切を見た時、深すぎて笑ってしまった。それも3つ、測定したら9mを超えていた。
これは谷の如く。
城の外側から各堀切を順に!
(数字は高低差)
大堀切⑤ 5.4m﹀4.6m
f:id:oomikun:20211225202347j:plain

大堀切④ 8.5m﹀8.8m
f:id:oomikun:20211225201610j:plain

大堀切③ 3.0m﹀9.5m
f:id:oomikun:20211225201547j:plain

いつも他の山城の堀切を見た時、何故もっと掘らないのか疑問に思う。実は表土の下が岩盤で掘れなかったり、費用、期間、必要性もあろう。
しかし1500年後半で史料に名が出てくる城は、何れも深い傾向にある。概ね倍の深さになった。戦い方や武器の時代変化によって、城も変化していくのだろう。


土の城と言えば、関東ロームを自由自在に利用した北条氏
小田原城
"小峯御鐘ノ台大堀切東堀"という有名な巨大堀切の高そうな所で深さ測定すると、
7.8m8.5m8.2mの結果[下の写真]
f:id:oomikun:20211229105031j:plain

一方の大蔵城[大倉]は9.5m [下の写真]
f:id:oomikun:20211229105153j:plain
お互い埋まっているとは言え!
いい勝負であった🤝


大蔵城_03
1582年の籠城では、大人数で短期に仕上げたと思われる。
何故これ程深く掘れたのだろう?
▷地質を観察
堀切の底で岩盤を探すが見当たらない。斜面には白く細粒分の多い土。
f:id:oomikun:20211226073046j:plain

そう!軟らかい土の山なのだ。この土は地下ほど硬めになり、手で掘れるが、一度崩すと粘着力が弱いので元に戻し難い性質がある。90°に近い急角度で掘る事が出来る。

一方で大蔵城の東先端に行くと安山岩が見られる。
f:id:oomikun:20211226072921j:plain
ということは、基盤岩は安山岩で、その上に分厚く泥流堆積物と噴火による火山灰質シルトが堆積した山となろう。
f:id:oomikun:20211229105307j:plain
安山岩は標高436mで露出、最大の大堀切③の底が437mなので、岩盤にぶち当たるまで掘った事が分かる。


大蔵城_04
山城には尾根起伏の凹を利用して、堀切の高低差を確保する技法がある。
大蔵城の大堀切④は、平滑な尾根を掘り下げたため、掘削した土がとても多い筈。これだけの土を何処に持っていったのか探すと、大堀切⑤④に通る尾根の北側一帯へ均した形跡があった。
f:id:oomikun:20211226215035j:plain

ここには違和感ある緩い傾斜が広がる。盛土して嘉児加川との落差を確保しつつ急にしたのもあるが、籠城した民が居住したのではと想像される場所。広い...
f:id:oomikun:20211226214824j:plain

この緩傾斜地を守るため、大堀切⑤も刻んだ。
f:id:oomikun:20211229104052j:plain
ここに沿って石積が見られた。恐らく塀の基礎になろう。城の最も西の外れにあたり、一揆勢が居住したと思われる。
f:id:oomikun:20211229104014j:plain

大堀切⑤から続く堅堀は、急だが嘉児加川まで続く。毎日のように水汲みで往復し、たくさんの水煙が上がり、子供達が遊ぶ声が山に響いていただろう。
f:id:oomikun:20211226214743j:plain


大蔵城_05
三重堀切に大堀切③のコラボ
f:id:oomikun:20211230091547j:plain
ん?何だか既視感が..
別で紹介している近隣の今井城(中野市上今井),若宮城(飯綱町芋井)と同じなのだ。大蔵城から今井城は3.5kmしか離れていない。
主郭から深く落として、軽くチョンチョンチョンの技法...
f:id:oomikun:20211230091522j:plain
三重堀切は3城の中でも1~2mと最も浅いが、大堀切は最大級。若宮城を居城にした芋井氏の拘りの形なのだろう。大堀切③の外法は3.0mの落差なので、三重堀切とセットに考えられる。
f:id:oomikun:20211229133155j:plain


大堀切③を上ると井戸郭がある。
f:id:oomikun:20211229133943j:plain
石塁をL型に高さ1.5m程に積んで虎口を狭く造り上げていた。この門を井楼か櫓にすれば非常に効率的だろう。
f:id:oomikun:20211230093204j:plain
本郭の真下には井戸があり、この郭には生活の場、台所の建物があっただろう。一揆勢の炊事班が汁や強握飯を作っていた様子を想像す。
f:id:oomikun:20211229133306j:plain
さて井戸郭の地形を観察すると、地質的に水が湧くような井戸ではない。深く掘って少しの染み出しはあろうが、基本は雨水頼みであろう。本郭の斜面を漏斗状に仕上げ、雨水を溜めていたと思われる。
f:id:oomikun:20211230092152j:plain
井戸郭の南側は元々の山の尾根ラインが土塁のように残っている。その南側に土を盛り付けて造成した郭であった。よって大堀切③の内法の上方⅓は盛土+石塁になり、井戸は山と盛土の境目を狙った位置になる。


大蔵城_06
本郭をあまり紹介しない質だが、
少しだけ紹介する。
f:id:oomikun:20211230161512j:plain
狭い空間の中で、1m程の段差を設けて4つの区割りを成す。東西に一番低い虎口の郭を設け、内桝形の形状となる。
f:id:oomikun:20211230161558j:plain
こうして見ると、居城に身分差を強調する縄張り城で、中核[井戸郭~東郭]は芋川氏など武士が独占し、民は城下の東①②③や西の緩傾斜で籠っていたと感じた。
f:id:oomikun:20211230161650j:plain


大蔵城_07end
古城の面影を探して..
地質がパサパサ土のため、細かい盛土形状を造ろうとしても材には適さない。よって主郭の至る所で、代わりに石が多用されていた。大きさは20cmぐらいになる割石。
f:id:oomikun:20211231065412j:plain
井戸郭の石塁、本郭、2郭、3郭の東虎口etc

そして..
大堀切②が最も多く使用されていた。
f:id:oomikun:20211231065659j:plain
は古くに存在せず段郭であったが、大量の石を積んで外法とし堀切に仕上げた。
f:id:oomikun:20211231065615j:plain
これらは割石なので丁場を探すと、東郭から持ってきたようだった。東郭はGL2m弱安山岩を掘って盤を下げ、その石を使ったのだろう。
f:id:oomikun:20211231065731j:plain
石による改変は、一揆勢による古城を拵えたものと思われる。単なる腰郭の段々であった古い縄張りの城に、堀切と堅堀を追加するなどし、籠城したのであろう。

本来の追手道は何処?
今は東郭の南斜面に登城道がある。
f:id:oomikun:20211231065935j:plain
しかし東郭の先端には塁が2条あり東側に備えていたのが分かる。そこから南東方向に尾根が延び腰郭がある。これが本来の追手道であろう。最初の私有地立入禁止の敷地になり、下りたかったが、ここで打ち止め。
f:id:oomikun:20211231070710j:plain

おまけ♪
大蔵城[大倉]東の住宅がある所は、昭和40~50年頃に採石場であったのが航空写真で分かる。採石場の作業路が現在のアスファルト市道になっている。
f:id:oomikun:20220101164818j:plain
縄張りは完全消滅であろう。
飯縄山からの溶岩の先端にあたり、恐らく崖状だったと思われる。砕いて採取したのだろう。
どう城にしていたか判らないが、3つ分の郭ぐらいはあったかもしれない。

アクセスが容易で、難易度も高くなく、残存する遺構も最高のものである。長野県でも三指に入るオススメの山城となろう。
f:id:oomikun:20211231070208j:plain