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とにかく歩いて目で見て堪能する

ボッチ城series若宮城[芋川]

飯綱町芋川[いもがわ]
信濃国水内郡


若宮城_01
斑尾川の上流域の山間、芋川氏はどの山を選んだだろう?尾根がベタっと続く似た山。すぐ北には東西に飯山道と言う野尻湖と飯山を結ぶ街道が斑尾山の麓を通る。
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通常城は、こういった街道を押さえる所に直接築くが、芋川氏は一歩二歩南へ退いた山を選んだ。これは芋川への侵入を阻む門なのだろう。
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信濃国の奥深い最北端に近く、山も険しくないため、麓から見て期待していなかった。しかし行ってみると基本的な部位を徹底した作事で、バランスの良い考えられた城であった
特には堀切と切岸だろう
これを成し得たのも、また地質だった


若宮城_02
城中を歩いていると、至る所で縄張りに強い意思を感じる。切る所は切る、掘る所は掘る。兎に角、堀切と切岸がシャープなのだ。
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山全体に切岸が行われ、深く角度もあり、それが400年残っている。何故そんなことが出来たのか不思議に思い、切岸された斜面に行った。
恐る恐る丹念に観察すると、白い肌の土が至る所に見えた。
"火山灰白土"
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例えるなら"落雁"の如く土
この急角度は、特殊な土が成したものだった。
和菓子の落雁
火山灰白土は、どこから飛んで来た灰だろうと見ると、周りは旧火山だらけであった。
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固くもなく軟らかくもないので、手でも掘れてしまうほど脆い。しかし一度崩せば元に戻せない。削ると粉や破片になって粘着性が無いので、後で盛り付けても、あっさり崩れ去る
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一発仕上げの切岸なのだ

若宮城_03
縄張り
図で解説
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郭の番号付は建物が置ける郭
本郭周りの濃茶色は急な切岸、下まで高低差30m超。4方向に尾根が延び、切岸により急勾配で高低差7m程、根元に深い堀切を2重3重と設けた。
里へ向かう1つの尾根だけ2,3,4,5郭と大きく平らな郭を途中に設け、間には独特の大堀切を刻む。堅堀も的確に多用されているのが分かろう。
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最大の特徴は、土の特性を活かした広範囲な"切岸"。これだけ削ると大量の土が出るが、城内に盛土の形跡が少ない。どこに行ったのか?
斜面を追跡して行くと、図の「緩傾斜地」と記した場所に敷均したと分かった。
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平地は攻城の足掛かりにされてしまうが、高低差のある上れない切岸の方を選択したようだ

若宮城_04
南1大堀切と南2大堀切
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一般的な堀切との違いがある。
堀切の山側を長く綺麗な斜面に整形し、麓側を「盛土」や「自然尾根を残す」手法。これにより堀切の麓側は土塁のような形状で残るのだが、山側の郭からは射線が通る仕組み。そして堀切高低差がより確保され、麓側は急なので一旦下りると戻れず、あたふたしている間に討たれる。
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県内で同様な堀切を記憶で辿ると、
室賀城、今井城[今井北]、壁田城で見掛けた。室賀城は飯富虎昌が在城した史料が残る。これらに関連するキーワードは
"武田"かな

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大堀切の特徴をもう少し詳しく解説
例えば、
自然地形30°の山があり、ここに作事をするとしよう。土質によるが、崩落せず最急にできる角度は経験的に43°前後。堀切いわゆる空堀を山に造る場合、概ね4パターンがある。
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一般的には「A」を用いる城が多く、上杉が関わった城は「B」を見掛ける。これでは上から下が見通せず、兵が多い場合よかろう。
若宮城では「C」「D」を採用した。

信濃なので鉄砲は多く保有していなかったと思われるが、実は鉄砲は真下に撃てない。弾が筒から抜け出てしまうのだ。
念入りに火薬を詰めても45°が限界と言われる。手を使わないと上れなくなる43°という斜面は、その理にもかなった角度となろう。

若宮城_05
地質が鹿児島のシラス台地に似る。なのでシャープで残っているのだろう。
まず本郭から北西に尾根があったので樹木に掴まって下りる。藪で見えなかったが、堀切が三重にありギョっとした。
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他の尾根と違い奥山へ通じる険しくない尾根のため、徹底して切ったとみられる。

三重堀切は高低差がどのくらいあるか測定してみた。
本郭側から高17m下りて...
①落差4.9m-1.0m
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▷②落差4.3m-2.6m
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▷③落差1.7m-2.5mと続き、
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最後の2.5mで奥山側の上り勾配となる。この凹の長さと土質で2本入れるか4本かなどが決まるのだろう。
薬研堀と思われるが、1m程は埋まっている。

若宮城_06
敵が邪魔な堀切を避けて迂回し、山腹を横移動できぬよう適所に堅堀を刻む。守る側が準備したプランに敵が誘われ応じるよう、考えられた位置にある。
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若宮城は "山城の教科書" のようだ。
岩盤の山ではないので、このような自由、計画的な作事ができたのだろう。

本郭には予想通りの鉢巻石積
このクラスの城には概ね有る。
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他の郭には見られなかったが、石が3~4個の高さに積まれた跡があり..崩れていた。岩盤が無いのに石はどう入手したのだろう~それは落雁のような土質の固い部分を使用しただけ。
急な切岸の頂上は土のままで良い気がするが、際ギリギリに板塀をガッシリと建てたため、石積を設けたと思われる。
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若宮城_07end
三重堀切に満足したところで、次は東尾根を県道まで下りる事にした。本郭から切岸尾根を下りると、浅い堀切があり期待外れ""と思っていたら、その先に東大堀切があった。
堅堀付きで高低差が
▷1.4mー5.4m◁

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堀底から本郭を見ると、遥か頭上高く..
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ここから先は、幅3mの細尾根がダラッと続き、先端を切岸でザックリ落とす仕様。
しかし息が止まるほどの大笹藪だった。もちろん突破するが...
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そもそも尾根というのは、固い部分が長年雨で削られずに残るもの。笹藪の土は固くなく、これ程笹が繁茂するのもおかしい。。
この尾根先端から50m区間は盛土、いわゆる土塁ではないかと疑う。上の方で切岸した土を運んで、尾根を延ばしたのではないだろうか。
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尾根先端下に林道があり、畑を経由して道路に到着。不安だったがなんとか帰着、安堵


少し余談だが、
麓から入山すると最初に現れる写真の遺構?
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これについては、
横堀,土塁ではない可能性がある。
今の状況は、"林業の作業道"や"墓地への工事用道路"である。
まず麓の集落まで一連して道が通じていること、そして道の沿道のみに杉が植えられている。
キャタピラ系重機は20~25°斜面が走行限界で、これ以上は危険となる。走行できるように勾配を整えた作業道を造る必要がある。横堀風になっているのは100m区間、戦国時代の横堀かは、もう少し検討が必要。
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この横堀の存在によって、武田だ上杉だ混合だといった論が発表されているが、両者が若宮城に関わったとされる史料は一切無い。
縄張りとして、ここに横堀を造る目的が検証されていないと感じた。[保留]


さて、
以上の芋川氏の若宮城を紹介した。
この城はいったいどの様に活きたのだろう..か歴史を地勢から俯瞰してみよう。

弘治3年(1557年)冬
武田の大軍に葛山城が落とされ、次の脅威に立たされたのが太田荘の島津。
矢筒城や長沼城を有し、5次川中島が終わった永禄7年頃には武田領になり、遠からず芋川荘も武田に降ったと思われる。
これらの地域を『CS立体地図』を用いて、明確に"城の遺構"と見えるものを網羅すると☞6箇所が浮かび上がった。
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我々はこれら城を同列に並べてしまいがちだが、規模では以下のとおり。
替佐>若宮>今井>大蔵 >割ケ岳>鼻見

大蔵と割ヶ岳で差が大きくなり、以下は小さい。
この地域の道を明治初期の地図を基にプロットして、城を置いてみた。
鳥居川以南では、南の武田領から2ルートしか侵入口は無いが、突破すると網目のように道が広がり、守るに適さないのが分かろう。そして図の右上にある飯山へ向かって再度ルートが絞られるのを理解する必要がある。
これにより、「替佐-今井」と「若宮」が、武田に対した自立型国衆の地域から、永禄年間には対上杉の境目の城へ変わったのだと思われる。
ちなみに、
替佐ー飯山は12km
若宮ー野尻は12km
と、各3里の緩衝地帯を保つ如く。若宮城の高技巧な縄張りは、武田から横目が派遣され、技術指導を受けて補強された、などと想像してしまう。
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