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とにかく歩いて目で見て堪能する

ボッチ城series[板石]

信濃国の"板石"文化
布積の山城たち
"平石"とも言われる。
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完全に平たい石と、平らだが焼き芋のような石の2種類があり、ここでは板石を大量に用いた城の話をする。
当たり前の事だが、条件として「板石」の採取が可能でなければならない。多くの人が見たことが無いと思うが、岩盤が板状に節理し、岩が10~20cm毎の層状に割れる自然の奇跡がある。ほぼ割らずに積み石が手に入るのだ。

下の写真は自然の岩である。
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それを縄張り構成の主要部とした山城の分布を探すと、信濃国埴科郡高井郡にかけて無数の山城があるが、僅か3つの城が該当するのみ。「霞城」は奇妙山を中心に広がる玄武岩安山岩の節理を利用したもの。
下の写真は霞城
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しかし一方で同じ地質系でも「尼巌城」のように板石石積を採用しなかった城も多い。
下の写真は尼巌城の岩
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「鷲尾城」は泥岩の山で、山上に該当する岩盤は存在しないが、古代人が麓から運んだ古墳の葺石を再利用した。石英閃緑岩という石で白亜、反りを持たせた積んだ姿が美しい。
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「雁田城」のように一部分だけ使う城は多いが、この3城は規模が違う。城の大事な部分に、そこにあった板石を利用した。

鷲尾城は縄張り的に戦国時代末との論もある。その頃は上杉景勝支配となる。小県郡上田境までの黄色い輸送路は「長沼城~海津城」、そして南条の虚空蔵山(坂城町)までを確保し、板石の城を中継地にしたとも想像できる。
また各領主が、思いのままに積んだのかもしれない。何れにしても「霞城」は、板石布積の中心的存在、王者である。


"武田信玄信濃侵攻の旅"をして、佐久郡の山城が置かれた山の岩盤でも、板石が採取できるのを知った。

下の写真は内山城
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佐久郡は上田城のある小県郡を挟んで南へ高速で1時間程離れた所。この地域は板石を縄張りに使わなかった。志賀溶結凝灰岩や「霞城」と同じく玄武岩安山岩が層状に節理した岩盤となる。
佐久郡の「田口城」,「平賀城」,「内山城」,「志賀城」が該当するが、元々ある崖を主体に、土塁や堀切で補足する縄張りで修め、石積を多く用いる方向性にはならなかった。

下の写真は田口城
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下の写真は平賀城
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先の3城を見ると、丁場から石積まで50m未満、高低差15m未満で行われている。同じ条件でも使う地域と使わない地域があり興味深い。
石積より土塁の方が防御に優れているのか?土の方が自在性が高いのか?など様々な理由で石積にならなかったと思われる。
武田以前、武田統治時代、その後は小諸城へシフトして廃城となる。それまで一貫して佐久郡では石積が本格的に採用されなかった。