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とにかく歩いて目で見て堪能する

ボッチ城series諸城[富士見]

小諸市 諸[もろ]
信濃国佐久郡


諸城[富士見]_Prologue
はじめに、地元では遠く小さな富士山が見えるので"富士見城"とも呼んでいるが、実は諸城の歴史と地質を鑑みると、反対側の浅間山系の方が密接であった。
ここは飯縄宮が置かれたように修験の世界に位置付けられ、"高峰山頂の岩"と"城の岩"の繋がりを見出だしていたのではないだろうか。
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諸城から200m程離れた山腹にある霊場
飯縄宮
背後の崖と一体になり、なんだか清い氣が流れる。
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諸城[富士見]_01
佐久郡中央にある小田切城の古めかしい切岸の段々を見た時..この城を思い出した。
「土」の段々に対し、「石」の段々である
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浅間山の裾野にある溶岩流の小山に築かれた史料に無い謎の城。縄張り的に武田云々より前の古い城になろう。
南麓に「諸」という地がある。泉が湧き東山道清水駅に比定され、相当長い時に人の営みがあり、そしていつしか背後の山に築城された。"小諸"という名の原初の地なのだろう。
周辺にこの様な石積の城は無い為、戦国末期や近代のものとの説もあるので、その辺りを踏まえて城を見てみたい。


諸城[富士見]_02
では、石の切岸を観察する。
切岸の石積高は2~3mで、確認した限り全段が石積である。
30cm未満の小ぶりな石を使用、
「積み方」は、主郭付近で人が多く歩く箇所の石積は"落し積み"の範囲が散見され、崩れていたのを近代に修復したのだろう。最も崩れ易い、無造作に置かれた笠石の復旧は全体に及ぶ。
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"布積み"を基本にしているようだ。
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南側は斜面が急峻で、土が殆んど無く岩盤。自然風化で板状に割れた石が多いため、これを直接岩盤上に積んでいた。

一方で、緩く土が多い西~北斜面は人が割った石が多くを占め、岩盤に張ったような構造で麓まで10段程続く。
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さて、石積は中世か?以外なのか?の疑問
まず城域から外れた南の自然斜面を観察しよう。
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風化して割れた10~80cmの安山岩がゴロゴロしてガレ場の如く。大きな石も風化で亀裂が入っており容易に割ることができそうだ。
大量の石材の存在を確認、築城前の山の様子を表すだろう。
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城中に露頭した岩ラインと曲輪の広さが頂上のノッペリ度を想像させる。鯨の背中のようなイメージ。緩いので敵が上がれないよう岩盤上に積んで段差を設けて曲輪を普請した。土が著しく少なく曲輪の土厚は平均30cmぐらいか。
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次に、
少し離れた飯縄宮の参道両脇に多くの石積がある。30~100cmの大きめな石を使った本格的なもので、高さ3~4mになる。
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古い大規模な斜面崩落の地形痕跡が見られ、その対策と修景を兼ねて積まれたもの。恐らく戦前の大里村の工事かと想像される。

一方で、城の西~北側は土が多く、本来は土で切ったままで良いのだが、その土が軽石混じりの火山灰なので、雨で崩れ易く、大量に余っている小石を積んで切岸形状を保ったのだろう。石にすることによって、高さは低いが垂直の切岸が出来上がる。
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また、
そもそもこの地域は、耕作地に石を積む風習でもあるのかと、北側にある後平の田畑や別の山を歩いて見たが、石積は全く無く、城跡だけに集中しているものだった。

以上を考えると、
築城に石積は不可欠の要素と考え、縄張りとリンクした範囲の石積は、中世の普請時において既に築かれていたと思われる。その後500年以上が経ち、何度も崩れ復旧されているのだろう。


諸城[富士見]_03
縄張り
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城の南側は比高150m傾斜34°だが、北側は30m傾斜21°で緩い。低い北側に堀跡などは無く、刻まれた複数の切岸がなければ城として成り立たないだろう。地形的に傾斜が緩い部分には切岸が堅実に刻まれていた。恐らく切岸と木柵が四重五重と重ねることで守っていたのだろう。
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東への尾根方向は、土塁+堀切を2箇所設け遮断するが、1つは埋められていた。本曲輪と2曲輪の間に形跡が残されている。
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反対の西側は尾根の末端状で、腰郭を段々に設けるが弱い感。全体的にシンプルな1400年代を彷彿させる構え。
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飯縄宮の参道が追手道と思われ、美術館~大堀切手前までは林道で乱され遺構かは不明。旗塚などと案内にあるが、作業道を造成しており、邪魔な土砂寄せていたり、桜など植林した跡にも見え何とも言えない。
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縄張り的に考え、本曲輪と2曲輪位置は案内板と逆にした。
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ここを詳しく観察すると平地に岩盤が露出し、幕末~明治と思われる矢穴があった。
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石を採石していた可能性があり、本曲輪が縮小されるなど形状が大きく変わっていると思われる。だから間にある石積は近年の甘い積み方のため、崩れているのではないか。
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諸城は地侍うしの戦であれば凌げるが、近隣の村上や海野氏との戦では1日持たないと思われる。
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ボッチ城series前山城

佐久市前山[まえやま]
信濃国佐久郡


前山城_Prologue
歴史を紐解く場合は、現地で確認する大切さを実感した。
信濃国佐久郡に前山城がある。
既存の縄張り図を見て、なんて古めかしく弱い城だと理解していた。しかし麓から斜面、城郭まで隈無く見た時、大きな違和感を抱いた。そして前山に関する史料を読み返すことによって、認識が間違っていたことに気付いた。
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前山城に関する史料
①1540年武田の板垣駿河守が伴野荘内の臼田や入澤などの城を次々と落とし前山の城を築き在陣す。伴野氏復帰を大義名分にした大井氏の一掃作戦なる
②1543年武田晴信は前山を経て長窪城を攻め落とす
③1546年武田晴信が大井氏の内山城攻めで前山城に入った
④1548年臼田を打立ち前山を攻め落とす。敵数百人討ち取り、城普請始る。桜井山の御判形伴野へ渡す

☞これまで前山城は伴野氏の居城と多くの書物等にあるため、当然古くから城があったと固定観念を常識のように抱いていたが、上の史料を見て気付く人もいるだろう。
板垣信方が佐久郡大井氏を牽制するために陣城のようなものを①築いたが、軍が退いた後に奪われるため、1548年に武田晴信が「総普請」として本格的に築城したものと読み取れるのではないだろうか。これに伴い前山を武田の直轄地にし、伴野貞祥には替地として桜井山を与えたのだろう。
そして武田家が内山城へ郡の拠点を整えた後は、伴野貞祥に前山を守らせたのであろう。それが代々伴野氏の城であるかのように認識されたと思われる。既に伴野氏の城が存在していれば①④と二度も普請を行わないだろう。

前山城_01
実際にどんな縄張か見てみよう。
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基本形は前面の腰郭多段、背後の堀切。技巧で特筆すべき点は無く、これだけである。
しかしこれは地形に合わせたものだった。伴野氏は東西に細長く、南北斜面は急な尾根を選んだ。
(下写真は北側斜面)
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(下写真は南側斜面)
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麓を全部歩いてみたが、なかなかの急斜面ばかりで入り口が限定される。❶南東に尾根末端状の低い登山口があるがやや急。
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❷南の伴野神社の背後からの口があり、腰郭を築いて守っているが、ここが弱点であろう。
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他にはどの山城でも侵入口となる❸西の山奥の尾根続きからとなろう。
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戦国末期に落とした依田信蕃は❷❸から攻めたのではないかと推察する。


前山城_02
切岸
既存の縄張り図だと、城の東には無数の切岸が円弧のように展開していた。古い縄張りだと感じていたが、現地で藪を掻き分け全段を見たところ、非常に優れた構えだと知った。
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斜面が緩いため切岸によって生じる平地の幅が広くなり、多くの敵が一時的に留まれる空間となってしまうという見方もあるが、一つ一つの段差が4~8m高くあり角度も50°近く、越えて行くのは容易ではない堅い構えであった。
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そもそも麓の城下から最初の一段目の切岸群へは、崖状の高さ15mの自然斜面があり上ることはできない。よってこれら雛壇は兵が駐留する小屋などが置かれた腰曲輪であり、武田殿の板垣駿河守が東の大井氏に対して睨みをきかせた布陣の跡ではと思われる。


前山城_03
虎口
武田の初期虎口形式になろう。
一言で言えば、スキーモーグルのコブにそっくりである。
南東の尾根末端状からが追手口と考える。斜度38°前後の急道になる。本曲輪までに虎口が4箇所確認できた。この形式がこの時代での武田の虎口の形と考えられ非常に参考となる。
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特徴としては、曲輪で道を両側に挟むように配置し、その間に城門を置く。上っていくと左側の曲輪を手前に出し、右側を奥にズラして高くする。こうすると敵は、坂道の中で右に曲がって左に曲がってと食い違いに進まなければならない。

前山城_04
武者走りと名付ける。
この城で最も標高の高い場所。
尾根頂上に適度な広さの本曲輪があり、その手前に堅い虎口が構える。ここを突破したらもう落城だろう。後の時代の虎口と違い、高所にある門を見上げるような単純構造になる。
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虎口の脇にある本曲輪の東端は、武者走りに板塀があり雛壇を見下ろす守りの要。
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前山城_05
本曲輪と2曲輪
四つ目の虎口を通過すると本曲輪になる。中間の北側が堅堀で抉られているため足跡のような形。👣
比較的コンパクトで、建物があったとして100人ぐらいしか入れないもの。
その背後の5m下に50人程詰められる「2曲輪」がある。本曲輪との二段構えのセットはなかなかのもの。
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唯一技巧として感心をした箇所になる。今は南側にお互いを連絡する道が造られてしまったが、本来は北側が通路であろう。
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前山城_06
「2曲輪」背後の大堀切
箱堀で礫岩を掘削したもの。小田切城の堀切と規模ともにそっくりである。築城当初の早い段階から造られていた堀だと思われる。
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普請に用いた土質は下のとおり
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前山城_07
本来はこの堀切から東が城域であったと思われるが、伴野神社がある搦手口からの弱点を補うため、西続く尾根に「西曲輪」と「二重堀切」を追加したと思われる。長細い西曲輪では100人程が詰められ建物があったと思われる。この城で最も広い曲輪になる。
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搦手口は尾根の鞍部で西曲輪に至る。しかしここより山奥側の山が高いめ、ここに小さな曲輪を置き、二重堀切を設けて守る必要があった。
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二重堀切周辺の構造は、自然地形そのものを活かすように、地形に合わせて堀切が掘られ、掘った土で土塁が造られていた。まるで近代戦争の塹壕跡のようだ。
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武田信玄の若き頃の城がどのようなものであったか、貴重な現地遺産になろう。虎口、曲輪の細工、堀切、縄張り全体への考え方、いずれも参考になるものばかりであった。
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ボッチ城series小田切城[雁峰]

佐久市中小田切[なかおたぎり]
信濃国佐久郡


田切城_Prologue
郡内を南から北へ流れる千曲川、概ね西側が伴野荘であった。

以前、伴野氏居城の前山城を見て小さな城に違和感を持っていたが、たまたま付近に山城がないかCS立体図で見ていた時、ギョッとする大きな城の地形を見つけた。前山城の倍以上はあろう、伴野荘最大である。

実は伴野荘の稲作に使われる水の大半は、小田切城下を流れる片貝川に依存していた。建武年間の大徳寺史料によると荘園全体が8000貫近くあり、概ね内52%が片貝川水系、22%が野沢用水系となっていた。
技術に乏しい中世でも水を田へ取り易い中河川で、全体の水源を抑える要地になる。

1478年から千曲川対岸の大井氏と60年にわたる戦に入る。「高白斎記」大永7年(1527)に「二月小朔日乙曲二日 小田切落城」とある。
大井氏に攻められ、伴野氏は武田信虎へ助力を要請しつつ小田切に籠城したが、敢えなく落城した記とのこと。
大井氏との決戦に選んだ城がどのようなものであったか、じっくり見ていきたい。

田切城_01
切岸に命を預けた城。中世の古い縄張りで、周辺の武田以降の激戦を経た城と違い、佐久郡独自の1400年代のもので逆に貴重となろう。

敵は麓の崖部を除いて四方の斜面をよじ上って来るため3~6段程の切岸を全斜面に施した。高さ4m以上の角度47°前後で急、これほど徹底した切岸は珍しい。

北と西に延びる2本尾根は先端が崖、東と南の尾根が動線となる。南は1本堀切があるだけで弱点となるが、高野町など領域が広がるため、味方の布陣等に頼ったり包囲される程の敵を想定してないと思われる。またはある程度戦ったら脱出を図る縄張りでもあろう。逃げ道は大切!
(城の西端より奥山の様子、尾根続く)

田切城の縄張りをスケッチするに、切岸によって生じた幅2m程の平地が帯状に何段も斜面を這うため、何処を歩いているか何度も分からなくなった。修正に修正を重ねる。

途中幾度も今何段目にいるか確認しながらの作業。たかが切岸と思うだろうが、直登はできなかった。酷い藪は西尾根で、他は手入れがされ見易かった。

踏査して分かったが、尾根は切岸で遮断して道とせず、北の尾根と尾根の谷間を麓と往来するルートにしていた。その麓には陽雲寺があり、当時は館であろう。

田切城の館跡と片貝川を見ゆる。
ふと思い出した...
鎌倉時代1279年に、ここを訪れた名僧がいた。
国宝『一遍聖絵』小田切里が踊り描かれる。踊念仏を初めて行った云々場所。

これまで小田切の何処がこの場所か不明であった。絵の右に描かれた川が片貝川で、地質的に崖状の河岸となる。そして..
左の屋敷が寺の場所ではないかと想像した。

(写真左側が陽雲寺の敷地)

鎌倉時代に城が普請されていたかは不明だが、主郭の東側に古めかしい形式の虎口が残る。
そこを起点に土塁の高さや形を入念に観察していくと、あることに気づいた。それは単なる切岸だけの城ではなく、侵入する敵を行ったり来たり往復させて、常に頭上から攻撃を加え続ける巧みな城であった。近世の城郭のようで、切岸に木柵を並べれば、まんまと敵は誘導されるだろう。
(黄色線で誘導される)


田切城_02
次は地質
この角度を成し維持した土を見ゆる
ここは八ヶ岳泥流の末端にあたり、礫岩を基盤にもつ。

そこを厚く火山灰が覆った山で、その土を削って幾多の切岸を築いた。

北麓は片貝川によって長い年月削られた岩盤が垂直に露頭する。山上の3郭~本郭の下にも高さ4mで露頭して岩の切岸となっている。これは普請の際に削ったものだろう。この時に採石した石は本郭の土塁や2郭との虎口に使われていた。

(下写真は本郭土塁)


田切城_03
本郭の北側、美しい切岸ラインが冬だけ見られる。その他の季節は藪でどんな城なのかも感じ難いのでオススメできない。

さて、
粘性が高い土なので急角度に削っても崩れ難く、切岸を有効にした理由となろう。数百年経っても土で50°勾配の斜面を残す山城の土はなかなか無いだろう。

八ヶ岳泥流の末端で礫岩を基盤にもつ。そこを厚く火山灰が覆った山。3郭~本郭など城の中核となろう郭の斜面は、特に強烈な切岸を行ったため、高さ3~4mの岩が露出していた。ほぼ垂直で板塀と組み合わせると、上るのは不可能であろう。

岩を穿つ
主郭の背後にある堀切

尾根の頂上付近は、地表近くに岩盤があるため、堀切であれば岩を掘り抜く必要がある。

田切城で最も広い2郭を尾根と単純に分離させたもので、内外での高低差が無い。本来の地形は外側が高かったが、切岸で出た土を運んで盛り、2郭を高く広く普請したのだと思われる。

このような岩盤の直掘りは苦労したことだろう。


田切城_04
ふと..麓の城下を住宅地図で見ると、
「鷹野,井出,油井」さんが多く集住していた。伴野氏に関連する一族で、姓氏事典では平安末期~鎌倉時代に兄弟であったとされている。今でも概ね旧伴野荘に広く分布する姓で、そちらでは個々で多く集住しているが、小田切では3姓がそろっている。ここが派生源なのではないかと感じた。
神職にも関わっており、新海三社神社は「山宮,伴野,井出」、松原諏訪神社は「鷹野」、その他各村の諏訪神社は「井出」(北佐久では「小林」)で、1527年の籠城戦の様を思い浮かべる。

ボッチ城series遠征編!【小田原城】

小田原市
神奈川県[相模国]

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誰もが知る北条氏の居城
多くの発掘調査と復元等により、今さら紹介することも無いものと思って訪城したが、どうも分かり難い状況となっているので、Upすることにした。


まずは、
Episode①_【天守閣】
この石一つ一つに市民の寄付金が込められている。終戦後の昭和25年、
「石一積運動」[いしひとつみうんどう]により、崩れたままの石垣が復旧した。
関東大震災から時間がかかったものだ..
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基本的に布積だが、詰石が全く使われていない。かなり良質な安山岩で亀裂,剥離,風化が全く見られない。
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小田原城天守閣に通じるスロープ。
建物への出入口になる。
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ピラミッド建設の石材を運ぶ坂路のようで、近代のものかと思い、疑り屋根性で調べると..江戸時代の絵図にキチンと描かれていた。上がってスロープの左側には土塀があったが、右側には無かったので、けっこう怖かったと思われる
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小田原城の北条時代は「土」の城であった。
江戸時代に創建された天守閣の海側は立派な石垣が巡る。しかし山側は「土」だった名残が見られる。
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本丸は「小峰山」に築かれ、その上方のみに石垣を巡らせていた。常盤木御門と天守閣の部分以外は、未だ関東大震災で崩れたまま斜面に石が散乱している。
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北条時代の遺構からは20cm内外の玉石が使われた石積が発掘されている。武家屋敷の塀垣の程度のものに過ぎない。
その後、稲葉氏が小田原を拝領し、初めて石垣で天守台を築こうとした際、請け負った職人からすると、「石垣を積んでも大丈夫か?」と心配になるだろう。まずは地下水の状態と地味を探るため井戸を掘る。
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本丸絵図を見ると、あったあった2本も、今は辛うじて1本残る。(下写真の右上にある鉄格子)
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しかし関東大震災で本丸にある石垣は、ほぼ全てが崩れてしまった。上図は本丸が普請される前の小峰山を想像したもの。茶色線から外れた部分は盛土になるので、地震で大きく崩れたろう。


小田原城天守閣の東側には、
「付櫓」がある。
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天守へ入る前の玄関のようなもので、間には短い渡廊下がある。その構造にするための石垣のデフォルメが楽しい。
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例えば東~北東から見ると付櫓が見えない。
やけにほっそりして、何だか寂しいものだ。美センスとして重要なのが理解できる。
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最後に天守閣へ上った。
本来は存在しない観光用の天守廻廊から山々を眺める。北条時代にも高い櫓がここにあったろう。豊臣秀吉に攻められ、籠城して迎え撃つ
"北条氏直"の気分...

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「中央に父ちゃん」挟んで、
「左側に左衛門佐氏忠」「右側に右衛門佐氏光」「これだけは拘りたかったのよ♪左右完璧!」
「新九郎も頑張ります」


次に、
Episode②_【御門と馬出】
天守閣のチラリとした構図に築城への美センスを感じないだろうか。
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稲葉正勝にアッパレを。
銅御門を通って二ノ丸へ入った者へ魅せるための工夫であろうリズム。
チラリと立体重厚感を魅せた後に、もっと見たくなって、近付いたり、二ノ丸御殿へ向かうと、小田原城天守閣は見えなくなる仕組み。
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ここだけ!

では逆に離れて、銅御門から外側へ出て見ても天守閣は見えない仕組み。
馬出御門と銅御門を通り過ぎた者へチラリと魅せるラインがある。残念ながらラインを外れると見えないのだ。戦いの無い泰平の世では、縄張り云々より、美も優先されるのだろう。

小田原城にある御門の"名前"
 銅門[あかがね]
 鉄門[くろがね]
昭和~平成に再建された「銅門」(下の写真)、そして本丸には崩壊したままの「鉄門」がある。
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どこかでこのセットメニューに覚えが..
そう甲府城だ!
石垣の安山岩と赤味までも似ている。甲府城では「鉄門」が再建された。(下の写真)
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え~小田原さんが銅なら、甲府は鉄で...といった調子だろう(冗談)


北条氏は「馬出」が有名
小田原城の馬出が是が非でも見たかった。
他の近世城郭では見られない形式で、それは現在の城郭が造られる前の北条時代を引き継ぎ、稲葉時代に若干整えられた作品だからだろう。
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東海からの敵に備える場所になり、左右から馬で横撃するもの。中央は馬屋曲輪として江戸時代になっても使用した。名残だろう。
縄張りの特徴として、形による住吉橋の往来と、土塁により中の移動が見えないようにした構造。
同じ北条氏の支城であった「忍城」絵図の馬出と比べてもらいたい。曲輪に残存する土塁を重ね、北条時代の姿を想像す。
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(下の写真は小田原城)
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(下の写真は忍城)
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ここで少し言っちゃいますが、
小田原城本丸のすぐ北東にある
「御用米曲輪と弁才天」の構えは、
岩槻城の本丸のすぐ北東にある
御茶屋曲輪と外曲輪」と同じ構えなんですよ。


Episode③_【地形】
天守閣の背後は重要だが、小田原城は県道+鉄道+市道となっている。失われた遺構、地形線や古地図を探ると昔こんな感じだったか。
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大正時代の鉄道建設で地上に建物がある区間はトンネルに、そうでなかった天守背後は、レール勾配に合わせて掘削された。
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大量の土が出る、ちょうど南東に外堀の弁天池があったので埋立地に用いた。

伊勢氏綱さまが分祠した弁財天様[1522年]
翌年に「北条」に改姓した。
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外堀となる沼池に島を築いて祀ったが、大正時代の埋立により何処ぞえ移されやと探すと、高校の裏、御用米曲輪土塁の間、空堀に移しおわした。
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ところで、
この弁天島の位置、北東[鬼門]とするのは現在の本丸になる。▶北条氏綱は現在天守閣がある小峰を本曲輪として築城したのだろう説。
ここから..龍の三つ鱗が始まる

小田原城を知るには、まず地形を知る必要がある。周辺一帯が住宅地や学校に利用され、非常に地形が分かりずらくなっている。
まず、
小田原城は"穴城"と言っておく。
普通の城は山の最高所に主郭を置くが、小田原城は逆だった。
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天守のある小峰山を本曲輪にした場合、八幡丘陵から見下ろされてしまう。敵を防ぐ構えとして許されない事だろう。
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では丘陵の先端に曲輪を普請しても、更に山側が高いので、堀切と曲輪が限りなく続く..それでは守備の兵が足りない。
北条の領土拡大に伴って、拡張されていった説が成り立つ。

小峰山
"ちいさな峰"の意..になるだろう。
箱根山の噴火による火砕流がドドーと激しく流れ下り、偶然大きな固まりがここで止まった。
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その後、表面が火山灰でパッケージされ、凸起伏が小田原城の本丸に用いられた。
同じ様な山が北1kmの城山1丁目にある。
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これは古城跡?恐らく街道の脇位置だから豊臣との戦における総構の出城だろう。


Episode④_【縄張り】
それでは私の目から見た小田原城
こんな感じ
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曲輪は、
北条氏綱から氏康の時代をイメージした。
この図の作成は激疲れた..よ
今の本丸周辺の近世小田原城は10万石の城に過ぎない。一方の北条は200万石超えると云われる。その城は巨大だよ。
本丸を中心にしたリング状の部分と、水堀の範囲が江戸時代の小田原城。そこを見下ろす左に長く延びる連郭式の部分は北条時代も使われていた範囲。江戸時代では留山で立入が禁止されていた。豊臣秀吉による緊張の高まりで、南側に東西方向に延びる赤茶色の堀と、最も外側の総構が築かれたと思われる。

近世の稲葉と大久保の小田原城しか知らない人からすると、なにを"穴城"言ってるの?と思うだろうが、北条がいた時代の小田原城は、城の中核ほど低い位置になる。八幡丘陵への坂はキツイ...これ切岸なのだから楽しもう。

小田原城図の補足
北条時代の曲輪までハッキリ記された絵図が残っていないため、経験と地形や古地図を参考に描いた。濃茶色は空堀で、普通は山麓に掘るものだが小田原城は斜面中腹に縦横と掘るため手間取った。概ねが障子堀で非常に深い。
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二ノ丸の部分が北条時代はどうだったか迷うものであったが、馬出と同じく「忍城」の縄張りを多角的に見つめていると見事にハマったため、参考にさせてもらった。
以上、総構よりも、あまり知られていない城郭の部分に力を入れて描かせてもらった。


縄張り的に気になる場所が
2点ある
敵ならここから攻める..だろう。
1つ目は尾根最高地点の「水之尾口」
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小田原城総構の西端にあたり、ここから先は下り斜面の不思議な地形。正に頂上だが幅50m程の平尾根に一本道と脇に畑が続く長閑な風景。
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全周を空堀で固めていた出城で、豊臣軍との籠城戦では佐野左衛門佐氏忠が守備。下野国の唐澤山城からやって来た雑兵の気持ちを思ふ。
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2つ目は城山1丁目
前掲で紹介したもう小峰山と別のもう1つの火砕流の流れ山。小田原駅で帰ろうとしたが..気になって足を引き摺り登った。
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今は150軒程の住宅にパッケージされて雰囲気が無いが、攻め手の豊臣軍は「かく山」と記す。
真田丸のような地形で、久野口を押さえる出城だ。総構の空堀を北に沿わせ比高20~25mで堅い。北条氏房が守備したので「岩槻台」とも呼ぶ。


Episode⑤_【空堀
とはなんぞや
ある箇所での発掘調査から判明した空堀の断面を描いてみた。普通は山麓に掘り込むものだが、小田原城では自然斜面の中間に掘った。
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すると斜面の低い側は堀底と高低差がほぼ無くなってしまうので、ここに土塁を築いて堀に高低差を持たせた特徴がある。
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これをもし石垣にしたらどんな感じになるのか比較。"江戸城の石垣"をイメージして穴太衆の技算術式で線を入れた。
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すると...
石垣とあまり変わらない斜面となった。川水の無い台地上では、如何に北条氏の空堀が有効だったか分かるだろう。
この堀底に"障子"を等間隔で入れ、空堀内での横方向の動きも阻害する狡猾さがある。鎧ではジャンプしても越えられない2m弱となる。
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敵にとっては、下りる恐怖は相当であったろう。銃弾が飛び交う中、土俵を大量に落として徐々に埋めて前進していくしかない。
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小田原城空堀とは、敵に下りる恐怖を与える地形,地質を巧みに用いた技術であった。


以上で終わる、如何であったろうか。小田原城を地形と縄張りの視点で見つめ直してみた。新たに感じた方がいるのであれば、自分でも見て小田原城の研究を磨いていってほしい。
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ボッチ城series壁田城

中野市壁田[へきだ]
信濃国高井郡


壁田城_Prologue
この付近は千曲川を挟んで西が水内郡、東が高井郡となる。犀川千曲川が合流する付近から新潟県境までと広大。
高井郡南端の霞城から車で北上して40分、まだ高井郡の中間、とにかく大きな郡だ。
根拠は不明だが"千曲川対岸にある替佐城と並んで武田の対上杉の城"と紹介されている。
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不思議な山で、替佐城が連続する里山の1つを選んだ城だが、壁田城は千曲川に沿った単独の細長い山で南北2.8kmもあり、形は背ビレの如くなる。

さて!どこから上ろうか..と見やる。
西斜面は千曲川に削られた急峻。そして通常であれば南北の尾根から上るものだが、山体が大きいため、一先ず中央の東麓から直接上ることにした。
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Startは天文元年に創建された国昌寺、調べるとここから2ルートがある。北ルートは江戸時代頃に石階を整備したとあり新道かもしれない。本郭へ直に行くもので今は藪。南ルートが恐らく追手道となろう。舗装された林道から別れて城の南端へ通じる。
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山の東斜面を見ると、林道が縦横無尽に通る。
急な地形で城の下には谷が2つあり、林道はそこを避けるように造られていた。
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軽の四駆なら通れるような道で、城と関連がないか念のため全部歩いてみた。急なのでコンクリート舗装され、一部区間は土のまま。秋は落葉でスリップ注意すべし。
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壁田城_01
縄張り...
背びれ状の山頂に主郭があり、長い尾根沿いに来る敵を防ぐための連郭式。馬ノ背状の平らに近いため[堀切+郭]³...と続くを基本とす。
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本郭の下に帯郭があり、信濃国では珍しき。ここでは南に回り込まないと本郭に入れない仕様。南東の下には池とセットの館のような遺構があり「下ノ城」と名付く。

壁田城は、これまで千曲川沿いで見てきた城と異なると感じた。私は新鮮で好きかもしれない。畝状堅堀といい、越後国の匂いを指摘する人もいるが同感だ。こうなると直ぐに「上杉謙信が..」と言い出す人もいるが、ここでこの地を治めていた高梨氏を紹介する。

☞高梨摂津守という人がいる
越後国にも所領を持っていた。
永正7年(1510)に関東管領上杉顕定越後国へ攻め込んだ際、長尾為景に援軍して長森原の戦いで顕定を討ち取った者。

永正7年7月付,長尾為景から伊達尚宗宛
「信州衆高梨.小笠原.泉.市川.島津出勢これあり,関東衆追散被申候」とあり、この頃の北信濃の主要な勢力が分かる。
彼は長尾為景の祖父であった。よって上杉謙信の曾祖父となる。戦の後に長尾為景信濃守に補任され、高梨氏を支援して信濃国まで出兵していた。後ろ楯として高梨氏の伸張を助けたのだろう。そんな時代背景での壁田城と認識する必要がある。
壁田城は史料に出てこない。
この地域は1400年代~1500年前半、高梨氏の支配下で多くの戦があった。周辺国人はもとより、室町幕府信濃守護小笠原、越後守護上杉にまで攻められている。その為には堅固な城が必要となろう。
しかし領域を見ても鴨ヶ嶽城のほか壁田城ぐらいしか堅城がない。他は館か砦のようなものばかり。そう考えると壁田城は高梨氏による城とするほうが素直だろう。


壁田城_02
さて国昌寺から林道[追手道_南道]を上がって行くと、林道の交差点となる平地に到着、駐車場になるだろう。
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その脇に異様な池があった。
こんな山中に..
周囲を見ると、館でもあったと思われる地形で、東に沿った小尾根には複数の堀切があった。
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林道を歩いている途中で水が染み出している区間があり標高は425m。籠池は標高420mなので滞水層がこの付近で広がっているのだろう。
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「下ノ城」から細尾根を上がって行くと、すぐ城に到着した。パッカリと割れたような堀切④が遮るが、今は堀切底を通って城内へ入れる。
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壁田城の見学を終えて思った事だが、恐らく壁田城は堀り切っても脇に城道や虎口を設けず、木橋や梯子で堀切を渡り、完全に分断していた城ではなかったろうかと思った。


壁田城_03
次に本郭の南にある5,6,7郭へ進む。
う~ん、見た瞬間にガッカリ..
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技巧に乏しい単調な古い縄張りで、広く長い1m程の段差により4区画から成る郭。陽当たり良好なので屋敷を置いたのだろう。唯一堀切④側に土塁を設けていたのが救い。
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武田前線説?に疑問を持ちつつ
本郭の方へ歩むと堀切③があり見上げる..
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はたして別時代に変わった?と思えるほど、ここから先は技巧に富んでいた。
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堀切③は外法に土を盛って堀切を造っていた。盛土なので押えにした石積が見られる。または石積にすることによって外法側を急にし、降りたら戻れなくする技なのかもしれない。
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内法は高低差が5mで上は帯郭となる。更にその上に高低差5mの本郭があり、いわゆる二段構え。
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堀切③は後に付け足した可能性が高く、ここから北側の縄張りには、至る所で改修痕らしきが見られた。


壁田城_04
地質
見るからに軟らかい土である。
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砂質粘土で、今井城と替佐城を含めて、周辺が古代に湖だった時に砂や灰が堆積した層が、逆断層によって褶曲しながら盛り上がった山。壁田集落の真下には活断層が眠る。
解せないのが帯郭にある大岩
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これだけポツンと鎮座し、大きさからして運ぶは不可能。地球の力に神のなせる業かと思った。他にも1m以上の石が点在し、悠久の自然の姿を想像す。堀切の石積は、混在していた岩を小割ったものであろう。
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掘り易い土なので、堀切をもっと深くすればと思うが、高低差が統一されていたのが規格的で面白い。必要な事以外はやらないといった義務で普請した城が今に残ると邪推できる。


壁田城_05
本郭と帯郭
全部が盛土によって造られた二段の郭で、高低差を測定すると、帯郭の土塁が4.9m,本郭の土塁が4.9mで統一されていた。
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虎口は無く、梯子で上がった所に小さな門があったと思われる。南東角に櫓台跡らしきがあり、その脇に門があったと想像(今の石段)。
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帯郭の北東には、後に追加したとみられる郭を断ち切った堅堀があり美ラインが今も残る。
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東斜面に3本ある畝状堅堀は、笹藪に覆われ上と下から撮影したがよく判らない..ゴメンなさい
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壁田城_06end
堀切①と②とゼロ
帯郭から北は、郭と郭に2m程の高低差を持たせて、堀切と郭が2つ続く。
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堀切①は元々あった平らな郭を後で分断したような堀切、堀切②は二重堀切と思われるが中央の盛土が潰れ埋まっている。
(下の写真は堀切①)
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(下の写真は堀切②)
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そして最も北側には、盛り上がった土の山がある。実はこれも古の郭で、前面にはもう1本堀切があったが、駐車場のために埋められていた。整地で出た土を郭の上に置いたままなのだろう。これは酷い..
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(写真の手前が駐車場、堀切は消滅)


おわりに
全体の縄張りを見ると、本郭に対して南に屋敷の郭、北は連続した堀切+郭を設けていた。明らかに北へ備えた城と分かる。馬瀬状の尾根はまだまだ北には続くので、堀切+郭は更に増設が可能である。しかしここで止めた。
高梨氏が武田に敗れて越後に去った後、武田信玄から山田豊前守が壁田を拝領した。彼は恐らく高梨氏の一族か、数十年前高梨氏に討伐された山田氏の生き残りだと思われる。
豊前守は上杉謙信が防衛を堅めた飯山城に対する前線として、壁田城を守ることを期待されたのだろう。境目の城として堅固にするよう命じられ、北側の強化を主に堀切などを番普請として行ったのだろう。
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ボッチ城series大蔵城[大倉]

長野市豊野大倉[とよのおおくら]
信濃国水内郡


大蔵城_Prologue1
芋川荘を中心とした鳥居川以北の城を巡り、色々と調べる内に..この城を見なくては完結しないと思い始めた。。

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1582年の信濃国争乱、激戦の地
多くの民が殺された記録があるので、これまで訪城を避けていたが、遂に行ってみた
織田軍の侵攻、武田家滅亡

☞上の写真は大蔵城と鳥居川に架かる大倉橋を写したもの。この付近は古くからの渡河地点で、突き出た大蔵城が山右手奥の芋川方面への口元を押さえていたのが分かる。
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さて、一般では大倉城としているが、
城名表記は『信長公記』に準ず
「大蔵之古城拵、いも川と云者一揆致大将楯籠...森勝蔵懸付...大蔵之古城にて女童千余切捨、以上頸数弍千四百五十余有」

☞"古い城を拵え、芋川を大将に民が籠った"とある。その遺構が今残るのだろう
これまで公開されている縄張り図を見ても一般的であり、鳥瞰図を見てもデフォルメされているので、普通の山城だろう..と思っていた。
しかし違った、凄城だった。
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大蔵城_Prologue2
信濃国には多くの人が亡くなった記録のある城が幾つかある。
高遠城、小岩嶽城、志賀城、大蔵城etc
霊感があるとは思わないが、ある城のある部分に近寄ると空気の圧迫を感じたり、肩や足が痛くなる時がある。御経を覚えたのもそのため。
息を整え、心は自然に溶け込み唱えると、
スっと痛みが無くなること度々。
これまで麓から何度も眺めていた。
でも未訪城
自分でもよくぞ決心したなと思いつつ(←おおげさ)地形図をじっと見つめ、麓を一周しながら相変わらず人が行かないような場所から上って行った。
今回も二ノ郭の石積付近で感じ、ここで何があったか考えてしまったが、技巧の感動の方が超勝って訪城を楽しんでしまった。
(↓この辺りです)
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森勝蔵という人物
美濃国の者、織田信長の家臣
彼は粘着が強い。
本能寺の変信濃国から急ぎ撤退したのもあるが、この時に敵対をした者達に遺恨を持ち続けた。勝蔵は長久手で戦死し、跡を継いだ忠政は豊臣政権に川中島藩への転封を願い出た。
ようやく1600年に叶い、背いた者を探しだし磔にした記録が残る。
そして厳しい検地により、再び一揆も発生。そして徹底的に鎮圧して、3年経たずに再び転封。
「ふ~用は済んだ」といったところか..
迷惑で粘着が酷い一族


大蔵城_01
まず城の欠点から
両sideが急斜面の長い尾根。
悠久の長い年月で鳥居川と嘉児加川に削られ続け、上る者を阻む。
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と、言いつつ意外に脇から上れる城が多いが、大蔵城は無理。連郭式で前と後のみが攻め口となる。
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通常は城の前を堅めるものだが、
この城は "後ろ堅固" であった。
前から攻められたら後ろは退路となるが、尋常ではない堀切が3本遮り、梯子などで登り降りしている内に多くが捕まってしまうだろう。
歴史もそのようになった..天正10年

【訪城】
まず、
縄張り的に城の東先端になるであろう麓に向かう。坂を100m程上がって行くと住宅が建ち、岐路には"私有地立入禁止"の看板が立つ。
城に夢中でズカズカ入る人がいるのだろう。
下に縄張り図を掲載したが、山の角度や位置、起伏を見ると郭跡と思われる。住宅の造成痕を取り除いて想像すると3つの郭であろう。
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さて、
用意された通常の南東ルートで行くのが嫌なので、東麓から嘉児加川沿いを歩き、城の北側斜面の形状をずーっと見ていく。
結局西側(山奥)の搦手口に到着、縄張りの西側切れ目の地形や、ここまで城とした理由を探りながら入ることにした。
(写真の左手が大蔵城方面)
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搦手口側からも幅1m程の歩くルートが主郭へ整備されているが、周辺の漏れた遺構や地形を把握するために藪に分け入る。
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近代は畑であったろう荒地が広がり、城の方向に向かって尾根が狭くなっていく。藪の中に池があって、地形的に想定していなかったので危うく落ちそうになった。籠城の際の飲用か?
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大蔵城_02
縄張り
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現地にも縄張り看板はあるが、
私の解説付き縄張り図です。
▷西の大堀切⑤④③
▷間にある三重堀切
▷本郭から東への古いディテール強化と石塁の関係、等々が特徴の山城。

東の①②③は住宅地だが、地形から古い館のような跡で、南に嘉児加川を流した池があったと思われる。(下の写真付近)
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太田荘島津氏の古城時代の後、織田軍に対する一揆勢が作事したと思われるものに、一般的な1400年頃の古い縄張りから今残る縄張りを差し引いた、
□大堀切⑤④②の新設
□三重堀切の追加
□本郭の盤上げ
□東郭の盤下げと想定した。

山城の堀切深さは一般的に4m台が多い。概ね埋まっているので+1mになるだろう。他に深さ1mの浅いもの、連続で設けるものも多い
大蔵城の堀切を見た時、深すぎて笑ってしまった。それも3つ、測定したら9mを超えていた。
これは谷の如く。
城の外側から各堀切を順に!
(数字は高低差)
大堀切⑤ 5.4m﹀4.6m
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大堀切④ 8.5m﹀8.8m
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大堀切③ 3.0m﹀9.5m
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いつも他の山城の堀切を見た時、何故もっと掘らないのか疑問に思う。実は表土の下が岩盤で掘れなかったり、費用、期間、必要性もあろう。
しかし1500年後半で史料に名が出てくる城は、何れも深い傾向にある。概ね倍の深さになった。戦い方や武器の時代変化によって、城も変化していくのだろう。


土の城と言えば、関東ロームを自由自在に利用した北条氏
小田原城
"小峯御鐘ノ台大堀切東堀"という有名な巨大堀切の高そうな所で深さ測定すると、
7.8m8.5m8.2mの結果[下の写真]
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一方の大蔵城[大倉]は9.5m [下の写真]
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お互い埋まっているとは言え!
いい勝負であった🤝


大蔵城_03
1582年の籠城では、大人数で短期に仕上げたと思われる。
何故これ程深く掘れたのだろう?
▷地質を観察
堀切の底で岩盤を探すが見当たらない。斜面には白く細粒分の多い土。
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そう!軟らかい土の山なのだ。この土は地下ほど硬めになり、手で掘れるが、一度崩すと粘着力が弱いので元に戻し難い性質がある。90°に近い急角度で掘る事が出来る。

一方で大蔵城の東先端に行くと安山岩が見られる。
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ということは、基盤岩は安山岩で、その上に分厚く泥流堆積物と噴火による火山灰質シルトが堆積した山となろう。
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安山岩は標高436mで露出、最大の大堀切③の底が437mなので、岩盤にぶち当たるまで掘った事が分かる。


大蔵城_04
山城には尾根起伏の凹を利用して、堀切の高低差を確保する技法がある。
大蔵城の大堀切④は、平滑な尾根を掘り下げたため、掘削した土がとても多い筈。これだけの土を何処に持っていったのか探すと、大堀切⑤④に通る尾根の北側一帯へ均した形跡があった。
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ここには違和感ある緩い傾斜が広がる。盛土して嘉児加川との落差を確保しつつ急にしたのもあるが、籠城した民が居住したのではと想像される場所。広い...
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この緩傾斜地を守るため、大堀切⑤も刻んだ。
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ここに沿って石積が見られた。恐らく塀の基礎になろう。城の最も西の外れにあたり、一揆勢が居住したと思われる。
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大堀切⑤から続く堅堀は、急だが嘉児加川まで続く。毎日のように水汲みで往復し、たくさんの水煙が上がり、子供達が遊ぶ声が山に響いていただろう。
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大蔵城_05
三重堀切に大堀切③のコラボ
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ん?何だか既視感が..
別で紹介している近隣の今井城(中野市上今井),若宮城(飯綱町芋井)と同じなのだ。大蔵城から今井城は3.5kmしか離れていない。
主郭から深く落として、軽くチョンチョンチョンの技法...
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三重堀切は3城の中でも1~2mと最も浅いが、大堀切は最大級。若宮城を居城にした芋井氏の拘りの形なのだろう。大堀切③の外法は3.0mの落差なので、三重堀切とセットに考えられる。
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大堀切③を上ると井戸郭がある。
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石塁をL型に高さ1.5m程に積んで虎口を狭く造り上げていた。この門を井楼か櫓にすれば非常に効率的だろう。
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本郭の真下には井戸があり、この郭には生活の場、台所の建物があっただろう。一揆勢の炊事班が汁や強握飯を作っていた様子を想像す。
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さて井戸郭の地形を観察すると、地質的に水が湧くような井戸ではない。深く掘って少しの染み出しはあろうが、基本は雨水頼みであろう。本郭の斜面を漏斗状に仕上げ、雨水を溜めていたと思われる。
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井戸郭の南側は元々の山の尾根ラインが土塁のように残っている。その南側に土を盛り付けて造成した郭であった。よって大堀切③の内法の上方⅓は盛土+石塁になり、井戸は山と盛土の境目を狙った位置になる。


大蔵城_06
本郭をあまり紹介しない質だが、
少しだけ紹介する。
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狭い空間の中で、1m程の段差を設けて4つの区割りを成す。東西に一番低い虎口の郭を設け、内桝形の形状となる。
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こうして見ると、居城に身分差を強調する縄張り城で、中核[井戸郭~東郭]は芋川氏など武士が独占し、民は城下の東①②③や西の緩傾斜で籠っていたと感じた。
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大蔵城_07end
古城の面影を探して..
地質がパサパサ土のため、細かい盛土形状を造ろうとしても材には適さない。よって主郭の至る所で、代わりに石が多用されていた。大きさは20cmぐらいになる割石。
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井戸郭の石塁、本郭、2郭、3郭の東虎口etc

そして..
大堀切②が最も多く使用されていた。
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は古くに存在せず段郭であったが、大量の石を積んで外法とし堀切に仕上げた。
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これらは割石なので丁場を探すと、東郭から持ってきたようだった。東郭はGL2m弱安山岩を掘って盤を下げ、その石を使ったのだろう。
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石による改変は、一揆勢による古城を拵えたものと思われる。単なる腰郭の段々であった古い縄張りの城に、堀切と堅堀を追加するなどし、籠城したのであろう。

本来の追手道は何処?
今は東郭の南斜面に登城道がある。
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しかし東郭の先端には塁が2条あり東側に備えていたのが分かる。そこから南東方向に尾根が延び腰郭がある。これが本来の追手道であろう。最初の私有地立入禁止の敷地になり、下りたかったが、ここで打ち止め。
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おまけ♪
大蔵城[大倉]東の住宅がある所は、昭和40~50年頃に採石場であったのが航空写真で分かる。採石場の作業路が現在のアスファルト市道になっている。
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縄張りは完全消滅であろう。
飯縄山からの溶岩の先端にあたり、恐らく崖状だったと思われる。砕いて採取したのだろう。
どう城にしていたか判らないが、3つ分の郭ぐらいはあったかもしれない。

アクセスが容易で、難易度も高くなく、残存する遺構も最高のものである。長野県でも三指に入るオススメの山城となろう。
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ボッチ城series[山城の横堀]

これまで紹介した長野県飯山市長野市の間に広がる険しい丘陵地帯、今の飯綱町中野市地籍になる。
斑尾山以南と鳥居川以北にある3城
若宮城、替佐城、今井城
これらを見て共通点に気付く。
概ね延長90~50mと、山腹の一部で規模は小さいが、
山城の"横堀"である。
(下の写真は若宮城)
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先述のとおり千曲川流域では珍しいもの。延々と巡らせるものではなく、最も里と繋がる尾根だけを遮るように設けられた。
(下の写真は今井城)
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林道に使われていた為、若宮城で見た際は近代のものと疑ったが実はモヤモヤしていた。そして替佐城、今井城とたて続きに横堀があり、遺構と確信した。

城全体の縄張りに影響を与えるものではなく、後から追加したような場所と作りで、補強の意味が強いと感じた。弱点を見た共通の指導に基づく、同じ時期のものではないかと想像される。

参考に、各山城の横堀の位置を紹介
[下は若宮城]
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[下は替佐城]
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[下は今井城]
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