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とにかく歩いて目で見て堪能する

ボッチ城series室賀城

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上田市室賀[むろが]
信濃国小県郡


NHK大河ドラマ真田丸を覚えておいでか?
室賀城とは「黙れ小童!」の城である
駐車場に車を停め、春の時に時間無く断念した室賀城の山並みを眺める。Hello Again というフレーズが頭に浮かぶ。
登山装備に切り替え(靴にテープぐるぐる)準備、懐かしのMy Little Loverを山に♪流しながら本郭を目指した。結論を先に言ってしまうと良い構えに思わず笑みが出てしまった。


[附録]
室賀を今は[むろが]と読むが、室町時代の古文書には[もろか]と仮名で記されている。同じく小諸[こもろ]は小室[こもろ]と記していたので、室賀も戦国時代は[もろが]と言っていたのかもしれない。
どの時点で変わってしまったのか..?
懐かしの川西村の表示が残る。f:id:oomikun:20210424194220j:plain


室賀兵部大夫正武
◈歴史的背景◈
織田信長が武田仕置きを終え甲斐を起った数日後、当主の室賀一葉斎禅松が甲斐にて急死した。跡を継いだのがあの室賀正武
小県郡の2割程を領有していたとみられる。その後、真田昌幸が上杉,北条,徳川,上杉と鞍替えするに翻弄され、対立し、謀殺された。当主となって僅か2年余のこと..
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彼の死因は
①当主として日が浅く家臣の信頼が薄かったこと②真田が隣にいたこと③上杉と徳川の境目を領有していたこと、そして④真田の表裏比興に歩調を合わせられなかった原因である屋代との血縁と思われる
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弟は屋代当主の秀正、父の一葉斎は屋代からの養子でもある。もはや一族同様の同領地
上杉の川中島四郡の回復は屋代の埴科郡も含まれており、少し気の毒に感じた

◼️それでは城の解説をしていく
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▶室賀城01
城は南側の原畑城と言われる根小屋(いわゆる館)と、北側に隣接する❷笹洞城と言う山城から成る。
こうした城は川や湿地で囲むのが基本で、室賀城でも北に幅5m程の藤庄川、南に洞川と大沢川、そして一番大きい幅15m程の室賀川が東の谷口を流れ、堀となっていた。
上室賀村絵図には、室賀川に「追手橋」が架かる。城の見学はここをスタート
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室賀川
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洞川
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館は400年経ち生活のため改変されているので、どう縄張りが展開していたのか、地形の微変化や造成跡、水などで探った。
追手橋を渡って城門を守備する郭があり、その奥に4m程高く下屋敷郭(勾配から複数段で侵入抑制)があったと思われる。そして中間を堀切りし(幅3m程か)、奥に上屋敷郭と想定される
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上屋敷郭の奥は深い堀切で遮断、今でも美しく残る
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☞室賀歴史❶
室賀郷は南北に長い谷で[上室賀]と[下室賀]に分かれる。埴科郡への室賀峠と、麻績への山道との合流点[上室賀]に城があった
1583年小笠原貞慶上杉景勝の筑摩郡麻績を攻めた際、室賀が援軍を出して上杉勝利に貢献したのもこの地勢が理由
小笠原が麻績城を攻めると、側面後方を襲う方向となる

▶室賀城02
根小屋❲館❳の土塁
南側に大沢川が5~7m程低い位置で流れ土塁が波状に続く。段丘斜面をより急になるよう整形したもよう。下屋敷は段々だが、上屋敷は広い平坦地になるよう下流側に盛土がされていた。
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反対の北側は人工的に掘り込み沢水を誘引し、高さ3m程の土塁とした。地形と縄張り的に、この下流に池堀があったと推定した。
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何故このような急な土塁を構築することができたのか。地質を探ると黒茶色の泥岩質であった。麓に露出した岩を観察すると高さ3~10mで角度が60~80°前後、上田盆地が湖だった時に堆積したもので頁岩と言う。軟らかく一度削れば長い年月にわたって急勾配が維持される
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その上に玉石混じりの土石流堆積物が1~2m程と薄く覆う。
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自然を活かし削り易い頁岩を削って整えたのだろう

▶室賀城03
☞【新説】丸馬出
根小屋❲館❳の跡は住宅,工場,道路,畑に利用され地形改変がされている。追手橋から入った郭の構造を詳しく測定などして、考えた末...
ここを「丸馬出」と判断した
☞縄張り図を参照
馬出は下屋敷より低く、間に幅3m程の堀が築かれる。今でも水が流れ刻まれた跡を見ゆ。橋を左右に設置して出陣する構造であったか
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☞室賀歴史❷
1553年村上義清が自落逃走、祖父の室賀信俊は武田に下った。数ヶ月後に飯富虎昌が「室賀の本城へ移った」と『高白斎記』にある。対上杉の為であろう
行って初めて感じたが..
室賀城は地勢や細部が地方国人のレベルではない。武田の補強が入ったものと思われる。軍事基地の岡城が築城されるまで、川中島や麻績への臨時拠点とされたか

▶室賀城04
下洞口は館→城への入口
尾根に挟まれた谷で、建物があったと思われる。
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整地された段々が館から谷奥まで続くが、上から6段までが遺構と判断した。その下は谷口も広がって防御に適さず生活域でもあり判断が付かない。
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段途中から東西の尾根へ登城路が延び、東が主郭へのルートだろう。上に行くほど急な地形なので段高も4~5mに達する。このまま真っ直ぐ上ると本郭、でも急過ぎて上れない
今の下洞口は杉林
分厚い落枝葉の下から石積が覗いていた。径がバラけた割石、よくある近代の畑かと思いスルーして上段まで上るが、上に行くほど立派となり、近代の畑とは逆の様戸惑う。
石は砂岩である
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ここまで来て落ち着いて観察すると、虎口のような作事と、東西尾根への道を守るかのような仕様が見え、この付近の段々の遺構は室賀城のものと判断した。
そして..後に主郭で素晴らしい石積と出会う事になろうとは、この時思わず²

▶室賀城05
西尾根の腰郭段群
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5段+αから成る。尾根幅10m程の中で構築された複数の切岸によるもの。敵を遮ることができる高さで、なかなか気合いが入っている。
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気になる点が1つ...尾根中心線から東の下洞口がある谷側までは切岸を刻むが、反対の西斜面には刻んでいない。麓の屋敷を突破されず、西の方へ敵が侵入できない前提の縄張りなのだろう

そこで、
室賀城の西腰郭段群との連携が考えられる。
根小屋[館]の上屋敷の更に奥、南北を塁で挟んだ地形がもう少し続く。
奥に行くほど扇状に広がるので、ここを遺構と考えていなかったが、西尾根の腰郭段群の仕様を見て考えを改めた。f:id:oomikun:20210424225909j:plain
上屋敷と同様の地形が続く範囲まで郭があった可能性があるのだ。さしあたって"西屋敷"と命名した。

☞室賀歴史❸
虚空蔵山と室賀
1582年屋代左衛門尉秀正は坂木三ヶ村を上杉景勝から拝領した。虚空蔵山のある南条村を含む。しかし1584年屋代左衛門は上杉景勝から離叛し..徳川へ
京都室賀家文書「...荒砥へ引籠り候所に景勝松代迄御出馬有りて厳しく攻め、それより虚空蔵へ引のけ...」


__________👇室賀城の見所___________
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▶室賀城06
西尾根の腰郭段群の先に!
このまま単調な段で本郭に到達するのかと思っていると、突然郭が切れた。
尾根の突起を削って射撃線を確保した均一な斜面が上へ延び、その先に本郭の石積が控えていた
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人間の視線は縦30°を超えると首を上げなければ視界に入らない。急斜面で足元に気を配っていると、視界に入らない本郭から飛び道具を射られ、知らぬ内に討死
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岩盤が露出する整形された斜面、その先頭上に佇む石積。美しいな..と思ってしまった。堀切で発生した砂岩の割石を主体に、玉石を混ぜた布積み。玉なので室賀川から苦労して運んだか?と思ったが、近辺の地質を観察すると、東尾根に見られる土石流堆積物の赤土に混ざった転石であった。郭造成で発生したものをきちんと利用していた。
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室賀城の本郭を守る石積を見上げながら、斜面を一周できるのだろうか?とやってみたが、南東と北は斜面が急過ぎて、木などに掴まらないと、足が下にズレていくほどであった。
小さな切岸も所々にあり、細かい所にも配慮がされ、飯富さんの指示かと感心した
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☞室賀歴史❹
屋代左衛門は虚空蔵山に籠城、攻め寄せる上杉軍。弟を助けるため室賀正武も加勢し、上杉軍を多数討ち取ったと云う
上杉の築いた虚空山、徳川が築いた上田城。自分達が攻めるとは思っていなかった事だろう
屋代が虚空蔵山へ長く籠城した事を長年疑問に思っていたが、上って見た結果は別述のとおり

▷室賀城6.5閑話
さて、まだ話の途中だが
室賀の石積や縄張りは如何?
本郭石積の下にある均一な斜面の長さが計測で50m前後。Setで調和の取れた仕様であった。逆茂木並べて射ちまくって近付けさせないのだろう。訪城する際は足元に気を付けて。

室賀歴史❺
真田は沼田割譲問題で北条と争い、徳川とも軋轢する中、1584年3月に屋代左衛門尉が上杉から徳川へ寝返り、虚空蔵山籠城。小諸在城の大久保七郎左衛門は屋代等を引き取ろうと上田通過を真田と交渉したが難航。そんな中、室賀正武上田城で殺害された。弟達の通過折衝で出向き、家康からの昌幸殺害密命も絡み、討たれたか

▶室賀城07
敵は本郭の南に構える石積を頭上に見た時、守りが堅く、左右に回り込むよう避けて移動する。右は急斜面で、足首が悲鳴をあげる程、草鞋の紐藁が切れるだろう
よって左へ行く事になるが、石積は続き攻撃を受けながらの横歩き..その行き着く先は堅堀、その向こうは大堀切
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城より奥に山が続く場合、
本郭の背後を深く堀切するのが常套手段。室賀城でも同様で、頁岩をガリゴリ砕き勾配60°高6.6m程に仕上げた。この大堀切の手前に深さ1mの小堀切を設けクッションとしていた。
既存の縄張り図を見て、全く期待していなかったが、石積と堀切が実戦を想定したレベルで良し
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☞室賀城のプチ工夫
よく見かける二重や三重の堀切。連続にすることによって攻め難くするもの。
室賀城では工夫を加える。
小堀切に下りた敵は、本郭に向かって上りスロープを進む。この勾配を本郭の射撃手の居る高さに合わせているため、狙い撃ちされる。更に進んで大堀切に下りるに至近であり高低差もあるので、竹矢来などで防ぎながらは難しい

室賀城08
山奥の土橋
山並みが奥へ続く地形のため、堀切を二重に設け遮断していた。更に山奥からアクセスする尾根の長さ50m程を土橋に仕上げていた。
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一般的に両側を切岸して狭くするが、室賀城は北が急なので切岸不要、南側は石積で狭くしていた。土橋の上に敵を誘引し、火点を集中させるのだろう
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土橋の石積は、400年経ち崩れていた。斜面に転がっている石を観察すると、西へ70m程いった山腹に露出している砂岩の崖のものだった。
転がっている石の中に、矢穴のものがあった。こんな山奥で矢穴に出会えるとは思ってもいなかったので感激。江戸時代以降のものか
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室賀歴史❻
屋代左衛門尉の上杉からの離脱と、埴科郡小県郡境の上杉最前線にある虚空蔵山砦群の占領。これらは、徳川家康豊臣秀吉の争いに連動したものであった☞小牧長久手の戦い
この時、室賀道まで封鎖されれば、徳川と確執中の真田は孤立してしまう。室賀城は堅く力攻めでは落とせない、室賀正武の誅殺へと至ったか。歴史は謎

▶室賀城09
やっと本郭
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塩田平方面への景色が良く見える。意外にも上室賀や室賀峠は良く見えず

落ち着いた広い本郭
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元々、山は東から西の上り勾配であったが、特に東側に土を盛って平地にしたため、追手側となる東の法高は鉢巻に石を積んだ分も含めて高7m近くになる。
北側と南側も急となり、四つん這いで上るほど。虎口は南東にあり、石積を用いて桝形状としていた。
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☞本郭の全周囲には石積が配されていたと思われる。起伏凸が残っているのは東のみで、土を中詰めにした石土塁。他の西と南にも残渣がみられるが、鉢巻石積となっている。
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転がる石を観察すると、矢のような細い鉄棒を貫入させ剥ぎ取ったような跡が見られる。自然に割れたヒビに従って採石した時代
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▶室賀城10
東尾根の腰郭段群
本郭~3郭は非常に堅固
大軍が攻めた場合、更に下の4郭,5郭は捨て郭となり、その上の郭で守備する仕様。
堅固な腰郭の法高は5m,9m,7mと続き、かなり険しい。3郭から本郭虎口まで、南側へ細い登城路を設ける。敵は常に右の郭から撃たれ続け、終いに左の急斜面に落つるか
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特に2郭は北側に堅堀も刻み、追手口からの敵を押さえる指揮所なのだろう
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山城の多くでは、7m級以上の土塁は、そう見かけることはない。室賀城の本郭東側の土塁は、高過ぎるのと土質(火山灰,パサパサ感あり)から崩れ易いのだろう、高さ1m弱の腰巻石積で崩落を押さえていた。
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▶室賀城11
東尾根の腰郭段群
4郭,5郭の下段まで下りると、縄張りよりは柵や建物で防衛した区域だと感じた。
ここより下の追手道は、集落からの林道の開鑿によって大きく抉られ破壊されていた。残念である。
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☞そのまま平らな尾根を進むと、温泉施設の上に出る。結構な長い距離である。位置的に下屋敷中屋敷を眼下に臨む場所で、館内が丸見えであった。何かしらの遮蔽物や建築物があったと推定できる。尾根の先端は見晴らしが良く、櫓があってもおかしくは無いが、遺構は確認できなかった。
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そこから平地へ下りようすれば出来るが、急な崖斜面と薮でオススメしない。


▶室賀城END
おわりに
あの「黙れ小童!」
室賀が過ごした城を堪能して頂いただろうか。見学を終え..東尾根(追手道)を下り、最終的に下洞口へ戻ってきた。上手く周回できる縄張りであった。
良く考えられた城

その後、麓をぐる~と周り、温泉へ
露天風呂で寝転がり、縄張りを反芻
最初、既存縄張り図を見て全く期待していなかったが、現地では堅固さと細工に笑みが出た
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◆完