oomi blog

とにかく歩いて目で見て堪能する

ボッチ城series替佐城

中野市替佐[かえさ]
信濃国水内郡


替佐城_Prologue
f:id:oomikun:20211206205552j:plain
 ❲城からの美しい眺め❳
太田荘の北端で、中世は島津の領域だったと考えるが、替佐の城は史料に出てこない。
明治初年の「豊津村」の頁には、替佐城を"對面城"と記載している。"たいめん"と読むのだろう。
替佐城からは、上杉謙信が普請した北の飯山城へ3里、武田信玄の長沼城に南へ3里。その中間にあたる位置は偶然ではないかもしれない。謎でかつ面白く、「武田」が築いたという噂が大勢を占める。

城の特徴は、
芋川荘を中心とした鳥居川以北6城の中でも郭の面積が大きいこと。
f:id:oomikun:20211206205437j:plain
郭が広いということは、多くの兵が駐屯できることになる。
他の5城は地形を巧みに活かした城だが、この城は縄張りとしては単調で生活感が無い。兵が少なければ容易に落城するだろう。
人力を大量に投入して山の形を変えてしまう大作事を短期で行った城とみられる。またそれを行える地質であった。
f:id:oomikun:20211205164341j:plain


替佐城_01
縄張り
f:id:oomikun:20211208203256j:plain
東に追手道が延びる。
高速道の側道から上がって行くと、左右に郭が待ち構える鶴翼の構え。しかし両郭には石積も堀も腰郭多段も無く、単純に土塁の角度と高さで防ぐ構えのみ。
f:id:oomikun:20211206210301j:plain
両郭の西背後には大堀切1を刻み、挟んで主郭を置く。一見複雑そうだが、全体は至ってシンプルで、3区画に分けられる。
本郭より奥山方向へは堀切を複数設け、ここから更に500m程西に山を行くと、平らな丘陵地が広がり、敵の侵入が予想される地勢。
以上が縄張り概略。
f:id:oomikun:20211206210359j:plain


武田晴信が、小県や佐久郡への軍事拠点とした望月城がある。台地の縁に築かれ、平地を堀で区切った区画が整然とする城。
 (写真 望月城)
f:id:oomikun:20211207215559j:plain
戦で五千人以上の兵が駐屯していたと思われるが、これと比較すると替佐城の規模は2割程の小さき城。
飯山攻めの軍事拠点としては小さく、広い郭を設けようとしているが、その目的と一致しない。
総じて郭を4段程とする古い一般的なもので、縄張りも1500年以前のものではないか?との印象を持った。

☞史料に出てこないため、謎の城や、武田の前線として築城されたなどと言われているが、武田侵攻以前の古い城だから史料に無いとも考えられる。
余談だが、今でも城下に住む方々の苗字が興味深い、「津金」「清野」


替佐城_02
盛土だらけの造成城
f:id:oomikun:20211208202512j:plain
替佐城は、広く平らな郭を設ける方針で築城されている。既存尾根の頂上は潰して平らにし、周辺斜面は削って谷側に張り出すよう盛土をした。不足する土は堀切の発生土で補う
f:id:oomikun:20211211132639j:plain
赤色が旧尾根で、はみ出した部分が概ね盛土となる。東郭と南郭の先端は、とても多くの土が盛られ土塁高もある。
見上げながら、地震や500年雨雪に耐えた丁寧な土の作事にとても感心した。
f:id:oomikun:20211208210612j:plain

次は、毎度の岩盤探しをする。
ありそうで疑わしい斜面へ、息を切らしながら分け入る。しかし..岩盤は無かった。
f:id:oomikun:20211208202644j:plain
替佐城は土の山で、混入する石は概ね1cmで少量。地中へ深い所ほど土は固くなり、基盤は凝灰岩なのかもしれない。
西の堀切がある付近に行くと不思議なものを見つけた。山頂なのに、様々な種類の河原の小石が無数に混じっているのだ。大昔はここに"川"が流れ、それが隆起or断層etcのことは、専門家に委ねよう。
f:id:oomikun:20211208202747j:plain

とにかく軟らかい土の山だから成せた縄張りで、周辺の他城と形体が異なるのは、基となる山の地形と地質によるもの。武田云々は信憑性が低いと感じた。


替佐城_03
大堀切1
多くのHP等で写真が紹介される
城の目玉
f:id:oomikun:20211209082001j:plain
本郭と東郭の尾根を絶ち切り、その土を東郭の盛土材に使った。樹木や雑草が伐採されて綺麗なので見ることができる景観。地元の方々に御礼を申し上げたい。
f:id:oomikun:20211209082500j:plain
一見箱堀だが、本来はもう3m程は深かったと思われる。他の堀切が薬研堀なので、ここも同じだとしたら、かなり深い堀切となろう。

替佐城の残念なところは、近代になって城内に道路網(図の緑色線)を設けたため、あちこちが破壊や改変がされている点である。主郭へスロープを設けたり、大堀切北側の帯郭とのアプローチが車が通れるよう埋められたりしていた。
f:id:oomikun:20211210205150j:plain

帯郭に残る土塁
f:id:oomikun:20211210210738j:plain

大堀切2
郭と郭を区切る大堀切1とは異なるもの。西の奥山からの敵を妨げる。
期待をしていなかったが、高低差が6mになる立派な堀切が暗い森の中に鎮座し驚いた。
f:id:oomikun:20211209211108j:plain
左右に堅堀を連続させる本格的な仕様だが、山側と城側の尾根軸がズレているのは珍しい。
f:id:oomikun:20211210204716j:plain
高さを重視したのは理解できるが、尾根の脇に回り込まれ易く、縄張りとしては経験不足に思えてしまう。
f:id:oomikun:20211211132930j:plain


替佐城_04
この軸のズレについて疑問を持ちつつ、周辺の斜面を踏査していくと、ある事に気付いた。
尾根より北側斜面が"変"なのだ!
多くの人がこの部分について、縄張り図に縦横斜の複雑な堅堀を描きこむが、
これは「地滑り」の痕跡とみられる。
崩れて地面が皺の如く部分と思われる。
f:id:oomikun:20211211132225j:plain
軸①と軸②はズレているのではなく、軸②側の山が無くなっていたのだ。本来の尾根は赤線と推定される。

周辺の山々も見てみると、替佐城から永江方面の北に連なる山々は地滑り地帯であった。
室町時代の中頃から集落自体の名前が史料に出てこなくなるのも、自然災害の可能性もあるのではないか。
f:id:oomikun:20211209220102j:plain
替佐城の追手道を麓で塞ぐ高速道路。側道を歩いていると、地滑り対策用の集水井戸が2本あった。やはり滑る可能性のある地域なのだと、改めて思い知らされた。
f:id:oomikun:20211209220134j:plain


替佐城_05end
南郭から麓へ向かって、腰郭多段がある。
f:id:oomikun:20211210204001j:plain
下ってみるが途中から物凄い藪で引き返した。草刈をしていた郭で休息していると高速の風光明媚
北信の城はどこまでも高速が付いてくる..
f:id:oomikun:20211210204035j:plain

ふと、足元の土塁に目をやると、この地質の山には存在しない石が転がっていた。恐らく石積だと思われるが、少し遠くから運んできたものだろう。
f:id:oomikun:20211210204135j:plain


おわりに...
芋川荘を中心に鳥居川以北6城を巡ったが、本当に行ってよかったと思う。替佐城は若宮[芋川]城、今井城、大蔵城とは別時代の城である。
替佐城は"千曲川対岸にある壁田城と共に、武田による前線として築かれた"との論を、ずっと信じてきた。しかし壁田城も、替佐城とは全くの別物で、この4城の技巧が数段上。

f:id:oomikun:20211210210613j:plain
(写真 壁田城)

応永7年(1400)の史料
小笠原信濃守から市河刑部大輔入道への安堵状には、
「水内郡若槻新庄加佐郷内 新居分 門阿跡」

この加佐が今の"替佐"や"笠倉"にあたるのだろう。その地に堂々と構えた城だったと思われる。
替佐地区の麓にある寺で、中世以前に遡るものはなく、神社も創建年月不詳。こうした事からも次のように考えられる。
やがて、
替佐城と麓集落からは、自然災害か戦火なのか理由は分からないが人の営みが失せ、南隣の「今井」にその中心が移ったと思われる。1500年頃には廃城となっていた。