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とにかく歩いて目で見て堪能する

ボッチ城series遠征編【飛騨高山城】

高山市

岐阜県飛騨国

 

飛騨高山城 1
1600年代末、江戸時代になっての徹底した破城のケースは初体験だ
金森家38700石は小名だが木材と鉱山で実録10万石とも云われ、ノーマルな縄張りに、荘厳な建築物のアンバランスが興味深い城だと思う

金森長近像


築城した地形は、東西を川に削られた舌状尾根の先端だが、尾根が切れた単独山の様相。人力で尾根を深さ4m程切っているが、大部分は自然の地形だ


舌は❶❷❸❹の流紋岩の山々から成り、❺から南は異なる地質。この中で金森五郎八は❶に築城した

破城により石垣がどの程度残っているのか?、開発により縄張りは残存しているのか?、最北の城下町側から順次見てみた

奥の山が城北端

 

飛騨国 高山城 2
金森が転封となり、幕府より金沢藩預かりとされた。前田家は維持など出費がかさむため、幕府に願い出てから高山城を破却してお役御免を急いだ
そして1ヶ月余で破却は終わった..


建築物はもとより石垣まで撤去された。残存した石垣が無いか全体を見て周る。最も良く残っていたのが中段屋形郭の御門の脇石垣

まさか矢穴と対面できるとは思っていなかった。厚く幅広い矢は1600年間前後を偲ぶ
この山の岩質は濃飛流紋岩と呼ばれるもので、恐竜時代の火砕流になる。高温で火山灰が溶結したもので白くて軽い

層状っぽく亀裂が多く、採石で割った際に大きな石が採れるかは運しだいで、小振りな石を多く産したろう

廃城で良い石は街へ持ち去られ、本丸周りには土草に隠れるよう小さな石が食い込むよう残っていた

 

飛騨国 高山城 3
縄張り


本丸のある山城部分、二之丸御殿のある中段、出丸にあたる麓の三之丸から成る
各々が高低差のある山の斜面で分離され、城郭としての防御的な連続性が無い

山城部分は土豪クラス規模で小さく、石垣と豪華な建築物があったのが特徴
面白いのが金森絵図だと城下町が広がる北の二之丸側が搦手、南の本丸の山奥側が大手と記載されている

攻手は南の山に陣を構え、本丸を直接攻めれば(今は歩いて3分で本丸に達する)三段の石垣が阻むが1日で落とせるだろう
江戸幕府のもと、格や威厳としての城を目的とし、戦う城は最早必要としなかったのだろう

 

飛騨国 高山城 4
縄張り②
本丸を山頂とするため、山城らしい攻め手の進路を考えた縄張りであった。キーとなるのは尾根線3本と谷線2本

北尾根は麓を三之丸で塞ぎ、途中に二之丸を配して尾根を削り取り断ち切った。西尾根は侍屋敷など多段の小郭を配した。南尾根は大きな堀切状の地形に拡張し、残った尾根を土橋にするなどした

北西谷の上方


北西から本丸に達する谷、口元を二之丸で塞ぎ、上方は扇状に敵を討ち取る構え。南東から本丸に達する谷は、本丸の井戸もあり要地だが、本丸の十三間長屋などからの猛撃を受ける

 

順次、掲載していきます。。。

ボッチ城series荒砥城

千曲市上山田,若宮

信濃国更級郡

 

荒砥城_prologue

千曲川の右岸が埴科郡、左岸は更級郡となる。更級郡の中間点、上山田郷の北側に荒砥城はある。南麓は宮澤川と館があったとされる傾斜地で陽当たりが良好。北麓は八王子山との谷間に荒砥澤川が流れ暗い、三角錐の如く急峻で、峰の向こうには善光寺平が広がる。

現在の東麓は道路や温泉街が広がり、千曲川に沿った道路を車が自由に往来しているが、戦国時代に、ここで千曲川が岩盤にぶつかり、上流域に荒涼とした河原が広がっていた。一方の西側は、高い姨捨山への尾根が続く。
荒砥城は「山田氏代々の居城で、村上義清に従い武田に敗れ、武田の支配下」と明治の村誌は伝えるが、史料では次の如く..

荒砥城に関する主な史料
❶天文22年「武田晴信の兵..更級郡荒砥両城に放火す」
天正10年「上杉景勝,更級郡荒砥在番衆を定む」
天正11年4月8日「上杉景勝..更級郡荒砥城に屋代秀正を攻めしむ,是日秀正 城を明けて遁る」
❹直江山城守書状「屋代と号する者逆心せしむる間、かの仕置きのため半途に至って出馬[上杉景勝]申され、その響承はり敢へず、逆徒居城荒砥佐野山両城五三日を経ず自落し、行方なき為体に候」

👉この時代にこれだけ史料に名が出てくる山城は珍しい。それだけ戦略的に代えがたい重要拠点であったということなのだろう。

 

👉この地域の城を考える上で注意しなければならない大事な点がある。それは、千曲川沿いを通れなかったという事。川中島へ向かう武田信玄、二万を率いた北条氏直の大軍etc..どこを通ったのだろうか?

下図を見てもらいたい。

戦国時代、蛇行する千曲川は尾根先端の崖から崖へ衝いていた。上田から善光寺平へは、右岸が虚空蔵山系と葛尾の二重苦となるため、左岸の室賀峠を越えて、荒砥城の何処かを越えていた。

史料からも荒砥城は、埴科郡の葛尾城に対す、千曲川対岸の更級郡を押さえる重要拠点であったことが分かる。

 

荒砥城_prologue2

素晴らしい櫓!

これが建つ以前...
昭和の時代、城跡にはロープウェー山頂駅があり、動.植物園や観覧車まであった。

コンクリート擁壁、複数の建物と廃屋、舗装道路、作業道などで山頂と南斜面は大きく改変された。そして「一億ふるさと創成事業」で、櫓など現在の城山公園=荒砥城が整備されたが...これは本当の荒砥城ではない。

♨️の電光板

 

観光用石垣

最も目につくのが上写真の石垣。これは佐久郡で産出される佐久石で、創成事業で購入し、トラックで運んだ物。この石を使って2ヶ所虎口で桝形を造っているが荒砥城とは関係ないもの。時代や地域的に全くは有り得ない形式なのだ。

造られてしまった新しいものを除外しながら、古の荒砥城の遺構を探して歩く旅となる。地形と地質から想像するなど、なかなか至難の技であった。全体の広い面を見て、周辺の城を参考に想像してみたいと思う。

 

荒砥城_01
戦国時代の荒砥城
これまで天正年間に、上杉景勝徳川家康小笠原貞慶と対峙するのに普請した信濃の城では、山系を広く利用した的確な防衛網を構築していた。


さて荒砥城の麓は千曲川の淵だったため、どこを通っていたのだろうか?

千曲川と淵跡(八王子山から)

下図の何れかの尾根を越えていたと思われるが、松代藩が江戸時代に八王子山の尾根で万治峠を開削したとあるので、①難所であったが同様にここを越えていたか、②より高低差はあるが、安定した荒砥城内を通過していたことが考えられる。

峠の看板

この一帯には城群跡が残る。荒砥城を下にー荒砥小砦ー若宮入山砦ー正城山砦と防衛網が敷かれ、更級郡の南北の移動を監視していた様子が浮かぶ。

人は移動する際に楽をしようと、できるだけ低く緩い部分を越えようとするので、一番低い荒砥城に最も守備の重点を置いたと思われる。その縄張りは右下の上山田から尾根を上って来る敵を想定したものだった。

 

荒砥城_02
荒砥城は腰郭の多段式で、本郭を含めて千曲川側に5郭、山奥側に西1郭と西2郭を中核に長さ200mの長い備えが続く。

奥が本郭、手前が2郭と推定。右の縦列の柵地形はオリジナルと思われる

扇状の4郭


桝形門と通路の造成で、郭の2割程は削り取られたと思われるが、今の郭のGround Levelは戦国時代とほぼ変わらないだろう。郭の高低差は本郭と2郭が6.5m、2郭と3郭が9.5mとなかなか堅固。土塁角度はもっと急だったと思われる。

土塁(左半分は破壊)

 

順次、時間の合間に更新していきます。

最後に「完」と記載してあれば、完成版

ボッチ城series中山城[武石]

上田市 武石[たけし]
信濃国小県郡

中山城_Prologue

武田信玄は、天文22年(1553)8月1日和田城の城主その他悉く討ち取り、続いて4日高鳥屋城に籠城の衆を悉く討ち取った(高白齋記)
👉この経緯については、「ボッチ城series高鳥屋城」の最後に考察させてもらったので参照されたい。


ここで、両城の間に素晴らしい山城があるので紹介する、それが中山城。武石郷の真ん中に突き刺さったような位置の山なので"中山"と呼んだのか。麓には武石館(方形で現在は消滅)もあり、ここは中世に武石郷の中心地だったと推察される。

中央に信広寺、その左やや向こうの山が高鳥屋城

後述するが、地形と縄張りの考え方が和田城に類似し、そこに後年の技巧が一部加えられたとみられる城である。

中山城_01

中山は、麓から主郭までの山の角度がどこも急で、概ねが一定勾配になる。細長い尾根の先端は三角錐の如く。急で手を使わないと上れない区間も多い。

北側は武石川に沿った崖状で、そこに沿った細い東からの尾根が追手道になろう。樹木が無ければ恐怖を覚える。南側は北側よりやや緩いが登れるような勾配ではない。(👉この地形は和田城の両斜面と同様だが、和田城の片斜面は上ることができる)

北側斜面は崖状

南側斜面

追手道は自然のままで、多くの人が往来した形跡が見られないため、この城は日常で利用されたものではなく、非常時に避難し、籠る城だったと思われる。

追手道の岩尾根

追手道を上がって行くと、急勾配斜面の中間に3段の小さな郭があった。ちょうど小屋が幾つか置ける広さ。主郭から上って来る者が見えないため、出入りする者を監視する関所的な場と思われる。

よく観察すると、一番上の段に岩を穿った跡があり、地下水の染み出しが見られた。飲水を確保する郭でもあったのだろう。

3段の小郭

そこに桶などを置いておき、ポチョポチョと滴る水を溜め、上の主郭まで運んだのだろう。ちなみに、主郭一帯には水気が全く見られなかった。

小郭の水場

 

中山城_02
【地質】

中山は全体が凝灰岩の塊で、本郭の"北東角"にあたる付近が頂上であったと推定される。
褶曲によって角度70°程の層状に剥離しており、厚さ15~20cmの板石を鉄棒などで強引に剥がし取ることができる。堀切、切岸を普請する際は石が大量に出たことだろう。

 

中山城_03
【縄張り総論】

この城は、北東麓にある子檀嶺神社(こまゆみね)から上って来る敵に対するものである。長い尾根の両側斜面は絶壁で途中からは上れないため、追手道(神社の階段を上って右手へ行き、獣柵を通って尾根筋を上る)さえ防げれば良しとしたのだろう。

中山城の縄張り構成を概観すると以下の如く

👉麓からーー❶関所的な小郭ーー❷3段の郭ー❸土橋ー❹堀切ー❺本郭ー❻堀切ー❼避難小屋的な郭ー❽堀切ーー山奥へ続く...

実は、同じ構成を採用した城が、近くの和田城になる(和田城も❶~❽の順で同一構成、❺の規模を大きくした。これは地形的な理由による)。この共通した部分が天文22年(1553)の謀叛より以前までに整えられた依田窪大井氏の築城術になると思われる。それ以外の共通しない、いわゆる特徴を探しながら見るのも、また楽しい。

 

中山城_04
【縄張り①】本郭へ

さて、縄張りを順にみていく。

3段小郭から更に斜面を上って行くと、勾配が緩くなる。そこに段差が1.5m程からなる単調な3段の郭が待ち受ける。尾根の先端になるため、見張り台的な役割を持つだろう。

防衛というよりは、ここに平地を造り出すことを目的にしたような郭で、そこに切岸や小さな堅堀を刻むことで、郭の形を整えたとみられる。

見張り台郭

堅堀で整えた

3段郭の先は本郭に向かって自然な尾根が続くが、左右を切岸によって狭く整えた土橋であった。長さ20mほどになり、その先は険しい堀切の刻みによって遮断されていた。

土橋

本郭手前の堀切①

堀切①は比高4.7m程になる。絶妙な角度と高さで、戦で越えるのは無理だろう。

長い堅堀

堀切から両側へ深さ1.5m程の堅堀を長さ50m以上刻み、斜面へ下りて回り込む敵を防ぐ。本郭の石塁との上下2段で迎撃するもので、とても直進などできない。

真っ直ぐ堀切を突破できなかった敵は、堅堀を越えようと斜面へ下り迂回しようとするが、越えた先には本郭の南北にある腰郭が、待ち受ける。

 

中山城_05
【縄張り②】本郭

本郭で最も目に引くのが"石塁"


2m以上ある高さも凄いが、全周を囲む。他の山城では背後だけ、半分だけなど多く、いつも「全周を囲むべきだろう」と思っていたが、ここは全て囲っていた。400年以上経った今でも綺麗に残存しており、代々の地元民の関わりに感謝する。

近隣では真田の松尾古城の全囲みがあるが、簡易で石塁上には乗れない。中山城は武者走り幅もあるがっしりとした本格派だ。

何故これほどの石塁ができたかというと、地質の説明で述べた通り、中山は岩盤であり、かつ節理によって板石が量産できたからである。和田城でもこのような岩質であったり、多くの表土があれば、全周を土石塁にしたかもしれない。

 

中山城_06

【縄張り③】腰郭

本郭の南北には、堀切の利点を機能させるため、お手本のような腰郭を設けていた。北ー東ー南とコ状の帯に配置されているが、それぞれの高さが違う。一番高い東を中心に南北を補佐するものだった。

北側の腰郭

北側は崖状だが、本郭との間に人が入り込めるような斜面が残るため、腰郭を1段入れ、更にその下に横堀(薬研だろう)を入れる徹底ぶり。この郭は概ね、堀切で出た残土を盛ったと思われる。

北側の2段目の腰郭のように見えるが、機能的に横堀とみた

一方の南側は、麓まで見通せるよう斜面を整形し、上に腰郭は1段設けた。岩盤を切岸し、その隙間には石積を補って、南側斜面からの敵を防ぐものだった。

南側の腰郭

腰郭の石積

 

中山城_07

【縄張り④】本郭背後の2重堀切
今の時代、堀切から本郭へ上がる事が出来る山城が多い中、この城の堀切は上れない。地質的に斜面は往時に近い角度を保ち続けていると思われる。

本郭側からの比高は以下のとおり。
 1重目 5.5m﹀2.4m

 2重目 3.2m﹀2.2m

1重と2重の間

1重目の断面

 

中山城_08

【縄張り⑤】二重堀切の奥へ不可思議

二重堀切の向こう側、隣接した所に少し不思議な縄張りがある。それは本郭の背後において、二重堀切に付属するかのような、窪んだ平地。なんだろう

やや左手前の窪み

地山を堀り込んだもので、周囲が低めの土塁に囲まれたようにも見える。水を溜めた池にも見えるが、湿り気が見られず、貯水能力があるのか疑問のところ。(縄張り図は郭の赤色にしたが、池の青にすべきかもしれない..)

 

溜水池?の奥には小山があり、その全体にわたって造り込みがラフな郭が広がる。城の防衛というよりは、陣や建物を置くために整地しただけのように見え、戦と関わりのない者達が、臨時的ここにあった建物等へ避難した場所とも思える。

奥のラフ郭

👉ラフ郭の北側に、形を整えた扇形の小さな郭が下にある。その先の北東には下って行く道のような形跡が見られる。麓は武石川があるため、そこまで通じているか確認はしてないが、このルートが搦手道または追手道だったかもしれない。

扇形郭から道筋痕

 

ラフな郭が展開する小山の先は、麓で一重の堀切によってしっかりと区切り、城域はそこで終わる。高低差がそれほどない、簡易な堀切であり、多くの敵の侵入を想定したような構えではないので、奥に続く尾根との出入を監視するものなのだろう。

最奥の堀切

 

以上により、中山城の全貌を紹介した。

戦闘を主体に構成されたいわゆる"城"の部分と、その奥に避難した者達を置くための"居住"の部分から成ることが分かった。その間には水を溜めた可能性のある凹部もあり、興味深い。

👉和田城の縄張りと共通性の高い構成となっており、依田窪大井氏の築城術を垣間見ることができる良質の城なのではないだろうか。両城とも居住部は後年追加されたようにもみることができる。

籠城するほどの強敵に接した事象をみると、武田、織田、徳川の侵攻いずれかのタイミングにおいて追加で普請されたものなのだろう。

本郭にて、わたし(影)笑

 

【中山城の場所】

ボッチ城series和田城

長和町 和田[わだ]
信濃国小県郡

 

和田城_Prologue

地図には載っていないが、地元で依田窪(よだくぼ)と呼ぶ地域がある。区域が明確にされているわけではないが、概ね依田川流域にあたる。その上流にあたる地が、今回紹介する"和田"の地

「高白齋記」には次のようにある...

天文22年(1553)8月1日の条「和田城の城主その他悉く討ち取り」

これは和田城主の大井氏が、村上義清の支援を受けて上杉謙信へ寝返ったため、武田信玄が誅伐したと解されるもの(下の看板内容は参考)

依田窪には、同時に武田によって落とされた近隣の"高鳥屋城"。こちらは村上勢が籠ったという説がある。そして武石郷の中心となる"中山城"と"武石館"、他に大井宗家にあたる岩村田の大井貞隆が誘い出されて捕縛された"長窪城"がある。

同じ依田窪にある山城をCS立体図で探していくと、和田で最大の集落となる上町・中町(中山道の和田宿)の裏山に最も大きな城跡を見つけた。

麓にはこの時に討死した大井信定の菩提寺である「信定寺」と、江戸時代に整えられた和田宿の名残が見られる。天然の川に囲まれたこの地に形成された町と城の存在は、江戸時代以前から形成されていたことを想像させる。

 

和田城_01

近くの中山城と同じくkm単位で続く、細長い自然尾根の先端に築かれており、大井氏に関連する城の共通性を知りたいと思う。

これまでの経験から、史料に"戦"の記録が残る城は、生き残ろうとする縄張りの意志が地形に表現されているもの。和田城の主郭部分だけを見ただけでは単なる山城に思えるが、そこから尾根の奥へ..奥へ..と進むと、生き残るための形跡を垣間見ることができる。麓に住まう人の大切な歴史の刻みなのだろう。

 

 

和田城_02【縄張り全体】

幅20m程の追川が尾根の周囲をWーNー若干Eと流れ囲む。

登城する口は「釈迦堂口」「追手口」、そして南の尾根伝いが想定される。釈迦堂口は、"口"としたが険しく痩せた細い自然尾根で、やっと登れるというだけの道。現在は下写真のように、釈迦堂駐車場から遊歩道が延びるが、これは近年に観光で切り開いたものだろう。

当時の和田城の主な登城路は図にある追手口になるだろう。宿場の中心付近から斜面を斜めに徐々に登っていく道である。(下写真)

追手道は尾根上にある城内からずっとまる見えで、上ってくる敵に石を落としたり、矢を射たりすることが出来る。

(下写真の上方が城域になり、斜面の凹凸を無くし、射線が綺麗に確保されている)

そのまま追手道を上がり続けると、終いに追手道は釈迦堂口の道と尾根上の地点Aで合流し、頭上には下写真の郭が待ち受ける。

 

和田城_03【地形&地質】
和田城の尾根山は、西側が崖状で東側は急斜面である。両側が崖という"城に適した山"というのは、そうは無いもの。

地殻変動により西側が隆起し、50°を超える程に持ち上げられたため、西側は崖状になったと考えられる。

白っぽい緑色凝灰岩の山で、細かいランダムな節理は見られるが堅い。岩盤は浅いため(尾根付近の表土1m弱)、堀切は浅くなり、普請は必要最低限の中で工夫したものと推定される。

表土はやや粘性のある火山灰質で礫が多く混ざる。雨などで崩れやすく、築城時の土塁などは、現在かなり痩せてしまっている。

西斜面

東斜面

表土

 

和田城_04【縄張り詳細】

縄張りを尾根先端の北側から紹介していく

①「釈迦堂道」の急な細尾根を上りきると、小さな二段郭がある。ここは尾根の東端にあたり、石積跡らしきも見え、大門道方向からの敵を見据える見張台のような郭になるだろう。木が無ければ遠くまで見通せる絶好の位置になる。

東端の見張台

見張台石積跡

そこから主郭へは土橋が延びる。先述したように追手道と土橋を渡った先の地点Aの郭で合流し、更にその上に三段の堅い郭を置いた構えとしていた。

釈迦堂道の東土橋

南斜面の堅堀

東土橋の構造を述べておく。長さは20m程あり、北側は崖をそのまま利用し、南側は切岸により急斜面にした。そして敵が土橋を渡って来て、最後の地点A郭の手前で堅堀を南斜面に長さ50m程に刻み、ザクッと土橋も抉って更に狭くした。この土橋と堅堀のセットは、ここだけでなく、奥に五ヶ所設けられていた。【和田城最大の特徴】であろう。

 

②下の写真は、本郭へ続く三段の郭。和田城の実質的な防衛の中心になる。ここを突破されれば、落城...

今は人工的な階段と梯子で、三段郭を直登できるが、当時は追手道寄りの南へ迂回させ、郭間は独立させていたろう。梯子で往来し、敵が来たら梯子を撤去したと想像す。

戦国時代の山城の土塁の形状は、そもそもの自然地盤に左右されるが、概ね3.5m~5mの高低差を確保するようにし、角度は45°前後に仕上げている。和田城の三段構えも同様になる。

 

③本郭

兵を詰めても100名程度分の広さ

形状は、北の三段構え側の3割を1m程高くし、背後7割の平地に建物を置く。平地の南側端(山奥側)にSーWと高さ1.5m程のL字型土塁を築いたといったもの。

この1m段差境の低い側に、本郭への虎口らしきが読み取れる。しかし虎口を含めた本郭の東側斜面一帯は、近代?に車両乗り入れの為等の道造りによって大きく改変されたと思われ、縄張りの思想が良く分からない。

この破壊によって本郭東側にあった土塁も壊されたかもしれないので、和田城の土塁は"Lで"はなく、本来は"コ"だったかもしれない。

恐らく本郭の東下には、もう1つ郭があり、追手道からを受ける、"馬出し"のようなものがあったかと想像する。

改変された本郭東

 

④本郭背後の堀切と"6段"

本郭の背後は、二重堀切→6段郭→三重堀切と続く。造作の低さなど(当時はもっとシャープだったが、盛った土は流された現状なのだろう)から、急拵えのもので、恐らく古くは本郭の背後に一重堀切であったものを、武田謀叛時に急ぎ拡張したように感じた。

二重堀切(奥に6段郭が見える)

(6段郭側から)

6段郭は、雛壇のような形状で、奥に向かって70cm程ずつ順に高くなっていくもの。盛土で整えていた。戦闘的には不要なものに思えるため、本郭に入りきれない者達を収容するための小屋を各段に置いたものに見える。

 

6段郭の奥には三重堀切が普請され、城域の最終部を示している。その奥は尾根が延々と続き、撤退戦の退路になるのだろう。

三重堀切の何れも、緑色凝灰岩と思われる岩盤に突き当たり、著しく深いものとなっていない。前後に土を盛ることで、最低限の深さを確保した形状。

三重堀切

 

⑤奥山への抗戦の足跡

まず城域を離れると、幅5~8mの長く平らな尾根が続く。小屋が幾つか置けるような面積で、6段郭の続きのように思え、入りきれない者達が居た空間とみられる。(朽ちたアンテナ跡あり)

ここの細くなった途中に第1番目となる堅堀を組み合わせた土橋状の虎口①があった。他にも奥に進むと②③④⑤と同様な虎口が続く。敵を通すまいとする幾重のバリケードである。丸太柵などで遮り、東斜面に回り込めないよう堅堀を斜面下まで抉った普請。

東斜面に刻まれた堅堀の長さは、いずれも50mを超えよう。正解に計測したかったが、いちいち上り下りが苦痛で断念した。小県郡や佐久郡、埴科郡で、これほど堅堀を機能的に採用した山城は無く、近い所では、上杉と関連性がある善光寺西側の葛山城川中島合戦時の上杉前線)が該当する。和田城謀叛の経緯もあるこことから、ここにも上杉家の関与が入り込んでいるのかもしれないと思った。

堅堀虎口①

(長い堅堀)

【余談】ちょうどこの東斜面下に、地下水が湧き出ていた。追手道から少し上の地山になる。山全体を歩いて水を探したが、地質的に飲水を確保するには、この標高付近まで降りなければならないだろう。基本的に雨水に頼った城である。

 

堅堀虎口①のある郭を抜けると、自然斜面の尾根が急になる。守るにちょうど良い塩梅の坂だなと上ると、予想通り上の平地に郭跡が残っていた。「中郭」と名付ける。

そこを抜けると、高低差は殆んど無くなるが、尾根幅は1m程に狭くなり、土橋のような状態で延々と続く。西側はずっと崖で、途中にある4つの堅堀虎口が実に良く機能したはず。

以下、他の堅堀虎口を紹介

堅堀虎口③

(長い堅堀)

 

堅堀虎口⑤

(長い堅堀)

 

⑥詰城へ向かって...

この先に城跡はあるのだろうか?

堅堀虎口⑤を過ぎると..目の前に尾根がせりあがったシルエット、起伏の大きい堀切が見えた。右手の西側斜面は見事な崖。最後の最後の方で堅固な構えがあり、心踊る。詰城側ほど高くなる、高低差を備えた二重堀切である。

(一重目)

(二重目)

(上方,詰城側から)

 

⑦詰城

先達が名付けた"詰城"。最後の最後に籠った地と見られる。郭をじっくりと整地する時間もなく、突貫で数日をかけて村人総出で普請したように感じられた。

詰城本郭

詰城の本郭は丸みの緩傾斜ある郭で、平地ではない。西側は崖状で、緩い東斜面に2郭、3郭と帯郭を半円状に取り巻く。

3帯郭

総体的に普請途中で断念をしたような中途半端な構えで、背後にあたる南尾根筋は、全くの無防備である。帯郭の下には、野球が出来そうな程の広い緩平地が広がる。

扇状地でもないのに、山の中腹にこれ程広い平地がポコンっとあるのは珍しい。鍛治足の村人が籠ったところなのかもしれなが、水場を確認することはできなかった。

追手道を通って城域から出ると、中山道和田宿の街並みが見渡せる。そのまま街道に出ると、脇本陣になる。この地で起こった謀叛の戦場を想像しながら、堪能させてもらった。

 

 

【和田城の案内】

 

ボッチ城series根場城

上田市腰越,東内[こしごえ,ひがしうち]
信濃国小県郡


根場城_Prologue
[ねば]
信濃の丸子城へ縦走の旅。
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高鳥屋城[たかとや]から延びる尾根2kmの東先端に丸子城がある。長~い1本尾根が上田合戦時に城群として機能しうるのか?又はそもそも通行できるか?知りたく候て、実際に歩いてみた。

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城群への口は7ヶ所になり、④~⑦は丸子城に附随するもの。⑤,⑥は麓にあったと云われる屋敷とを繋ぐ道。
最も緩いのは①小屋坂峠の北側方向(南側の腰越からは急)からと④上辰の口になる。

まず最高所の高鳥屋城から急な比高160mを下りると、幅2~5mの尾根が±50m以内でupdownして続く。左右の斜面は崖で、どちらかと言えば南が絶壁、北が急斜面の様相。
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歩いている内に、なんだか既視感がある地形だな~と思ったら、同じ上田市坂城町の境にある峻険な"虚空蔵山系"の山並みだった。案の定..同じ緑色凝灰岩の山で、自然は素直だなーと感じた。
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虚空蔵山系と同じく、丸子城縦走ルートもトレッキングコースとして申し分ないが、下界にある丸子クリーンセンターからの焼却臭が気持ち悪い。風向きによるので、気を付けたいポイント。


根場城_01
高鳥屋城を下り、小屋坂峠を過ぎて比高70mを上がると石積が...
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まさか有るとは、思わず思わず。
切岸の朽ちた斜面も格好いいね。
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小屋坂峠からの尾根の全幅に石積が配される。小さな石なので崩れ易い筈が、多くが現存している。
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岩盤の上に積まれた事と、径の2~3倍の控長をとっていたため残った。周辺の山城の石積で、これほど控えを確保した石積は見た事が無いため、時代が新しいもの..上田合戦の頃と言えるかもしれない。


根場城_02
予想外の石積登場に↗️満足し、上の曲輪へ進む。そこから斜面の上方に見える石は、毎度の板塀礎石?かと思いきや、本曲輪の重厚な石塁であった。
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WSEを囲い北には無い。急なので必要ないのだろう、20cm程の割石で、南側斜面の切岸で出たものか。
居心地が良くて弁当🍙を食ふ。
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本曲輪のNE下に、チョコンとした小さな曲輪があった。東側に刻まれた堀切から斜面を水平移動されるのを防ぐもので、獣道のような細道が残る。
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改めて良く観察すると、東から攻めた場合、ここを通らないと本曲輪に入れない仕組みになっていた。
かなり高度な縄張り、知恵者。


根場城_03
石塁に囲まれた本曲輪の東側、丸子城に尾根が続く。堀切が刻まれるが、堅堀がここだと思われる適所に設けられていた。縄張りのことを深く理解した者によると思われる。
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根場城_04
縄張り
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一言で言うと"堅堀使いが上手い"
尾根方向の東西何れにも配慮した構え。東側は岩盤により深い堀切を諦めたようで、切岸に止め、代わりに本曲輪の虎口を西側に置いた。本曲輪の北側に獣道のような急斜面の道を設けて迂回させる仕組み。
一方の東側は岩,岩,石積の三段構えと堅固で、その手前に蛇行した土橋を置いた。これらの縄張りを成すに随所で堅堀を利用しており、小さい城ながら巧者の姿が浮かぶ。
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丸子城から敵が尾根伝いに来る場合、手前に小山があり根場城から見えないので、物見の曲輪を普請したような形跡がある。一方の小屋坂峠からは①~③の関所的な緩衝となるような小さな曲輪を設けていた。


根場城_05
さて..堀切から堅堀へと続くこの形。手入れがされていないので樹木や落葉で若干ラインが分かり難いが、"高鳥屋城"と見間違う。
堀切から小曲輪通って本曲輪の裏側へ道を設ける手法も同様。同じ頃の同じ巧者による城だと思われる。
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高鳥屋城と根場城の間にある切通し。
"小屋坂峠"である。昭和63年まで使われていたので電柱が建ち、峠の北側に耕作放棄地が点々としていた。
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南側の腰越の斜面は急なため、車はここで引き返していたようだ。トンネルが完成して便利になったものだ。


根場城_06
蛇の土橋
小屋坂峠から丸子城方面へ上って行くと、徐々に普請跡が見え始める。小さな堀切や切岸、出入を見張るような簡素な門跡。
それを抜けると岩盤の主郭部が見えるが、手前に珍しい蛇行状の土橋があった。
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堅堀を千鳥に配置して蛇行させ、石を積んでまで土橋に整えた几帳面さ。
甲府の積翠寺要害(下の写真)以来の技と出会う。
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主郭部の西を守る構え、岩,岩,石積,石塁の四段構えが待つ。今はロープで岩の切岸をよじ上れるようになっているが、普通は上れないので、当時は北の方へ細い道で西曲輪へ追いやり、上から多段射ちし続けたのだと思う。

根場城_07end
本曲輪から東の丸子方面へ下る。その斜面は表土が無い岩盤だが然程急でない。恐らく硬いので堀切は浅くなり、補って岩盤を削った切岸で済ましたのだろう。
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本曲輪の石塁の石材を丹念に見ると、鉄棒のようなもので割った痕跡があった。
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【閑話】
根場城を過ぎ、丸子城へ向けて尾根トレッキングをしていると、途中に立派な石垣があった。
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中間点になる。恐らく麓の一本木諏訪神社に関連した神社跡と思われる。南北から林道がアプローチされていたので、機械を入れて工事をしたのだと思う。
根場城~丸子城の何もない尾根を紹介して終わりにしたい。
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(下の写真は、よいやく丸子城へ着)
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(途中の美しい景色)
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ボッチ城series高鳥屋城

上田市武石鳥屋[たけし.とや]
信濃国小県郡


高鳥屋城_Prologue

史料がないため経緯は不明だが、攻守を繰り返す甲斐国武田と佐久郡大井との間で養子縁組が行われた。不可侵の和議だろうか?
これにより文明3年(1471)甲斐の武田信昌[武田信虎の祖父]の子が、岩村田大井氏の養子に入って大井美作守光照と名乗り、大室[諸]を治めた。後にその息の大和守信廣は武石に住す云々。

天文12年(1543)長窪城で宗家の光台[大井貞隆]が武田晴信に生捕られて以降、大井大和守も武田に下ったと思われる。光台は家臣芦田と相木の謀略で長窪まで出陣し、そこで裏切られ武田晴信に引き渡されたのだろう。
(高鳥屋城から見た長窪城)

しかし10年後、大井大和守は越後国上杉に寝返ることとなり、この城で武田晴信と死闘が行われた。
「高白齋記」に、とある..
天文22年(1553)8月1日望月古城から長窪へ着陣、和田の城を攻め城主その他悉く討ち取り、3日高鳥屋を見物に登る、4日籠城の衆悉く討ち取る..

歴史の記録は、短い文字に残るだけで情景を与えてくれない。やはり現地を見るのが一番であろう。武田晴信がどう攻めようかと物見に登ったのが鳥屋山砦と云われる。そこから続く尾根伝いに攻めたと思われるので、同じ西ルートで訪城す。


高鳥屋城_01

南の鳥屋集落から凹状の谷間を上がると、北の尾根鞍部に到着す、ここからが城域となる。そのまま北側は下り斜面だが絶壁、よってT字路なので右へ曲がると主郭方面になる。

すり鉢の谷間なので上がって来る敵が丸見えのため、弓が随時飛んでくるだろう。この地形は武田晴信が初陣で落とした海ノ口城とソックリ同じ、あの日を思い出しながら攻略を練ったのだろうか。

主郭へ向かって尾根を上ると、直ぐに前方を岩が塞ぐ、岩盤の切岸だ。高さ10mの礫岩、岩の北側は堅堀で通行できなくし、南側に追手道を通す。

(下の写真は岩切岸の北斜面)

(下の写真は岩切岸の南斜面)

岩の上には更に櫓などを置き、堅固に守っていたと思われる。岩の上は比較的広い曲輪で、岩盤が露出するほど平地を確保しようと普請されていた。

岩曲輪は手堅いため、これを避けるように南の急斜面を武田軍が攻め上った様子が想像される。ここに堅堀を無数に刻んでおけば容易には落とされなかったろうが、当時その技巧は無かったのだろう。
ちなみに本曲輪の下で、岩を利用した曲輪を用いるのは、近くの長窪城にもあり、この地域の手法なのかもしれない。
(下の写真は長窪城)


高鳥屋城_02
西曲輪の上にある"4曲輪"は西方向からの最後の守り。これを突破すれば主郭になるが、いたってシンプルな腰郭で虎口の工夫もない。

4曲輪の下には岩盤を削った跡の切岸があるが、なんだか普請途中で止めたような形だ。この技巧的でない構えを補強しようとしていたような伏がある。

余談だが、
堀切は尾根に対し直角に掘られ、尾根を直線的に進む敵にとっては厄介だが、実は尾根と直角方向からだと侵入路になってしまう弱点がある。
西曲輪から北の堀切まで急斜面を水平移動していくと容易に北堀切の底へ到着できる。
(下の写真)
北曲輪が背後から挟み撃ちになってしまう。

これを防ぐため、途中に小さな曲輪があった。

上の4曲輪からの支援も受けて守る曲輪。なんだかチンマリして居心地が良く、長居してしまった。

さて、この西側全体の構えを見て思ったが、これだけ?である。上々はどんな構えがあるのか期待して上って行ったが、呆気なく主郭に到着し拍子抜けした。長窪城と同じく古い時代の縄張りである。先述した類似の海ノ口城よりは時代が進んだ工夫が見られるが、これでは武田晴信により1日で落とされよう。
しかしここで最初の違和感を抱き、次の本曲輪から見た景色は考えを改めるさせることになった。


高鳥屋城_03
真田安房
武田軍の想定攻撃ルートに沿った西側は、技巧に乏しい。一方で北側の縄張りは別世界。

この先、北には何があるのか?倒れた三角柱のように鋭利な細い尾根が2km続く..先端には"丸子城"があった。

(下の写真は丸子城、左が高鳥屋城方面)

そう第一次上田合戦の戦場である。
高鳥屋城は真田に再利用され、丸子城の詰城として手が加えられたとみられる。真田安房守の堅めの戦略。上田城を中心に、東は砥石城、西は丸子城で領地を上手く押さえ、かつ守り抜く事が出来る城を選んだ。

両翼は、ある程度戦ったら逃げられる口を準備していたようで、丸子城は上田城の対岸にあたるため、砥石城より長期に守備させる3城の構え。徳川家康の出陣まで考えていたのだろう。

さて、上田合戦で徳川軍が本陣を置いた八重原。台地上に丘陵が広がる。

自分ならどこに布陣するだろうかと美しい風景を明神池から見渡すと、ポツンと小さな山があった。「勘六山」と言う。麓には水場もあり、最適であろう。


高鳥屋城_04
加津野隠岐守[真田信尹]
調略跋扈
天正11年正月真田昌幸徳川家康へ恭順し、上田築城が始まる..少し前
徳川家康から加津野隠岐守への書状
「武石,丸子,和田,大門,内村,長窪など逆心企てのよし注進候。是非に及ばず雪消候はば急度出馬令め凶徒等退治遂ぐべく候」
地元で「依田窪」と呼ばれる地域、連帯性が強いのだろう。真田に従わないので家康が討つとしているが、丸子三右衛門は信尹と同じ馬場美濃守信春の婿。簡単に依田窪を手に入れたと思われないよう難渋を装う、真田昌幸の演出なのかもしれない

三右衛門の息に"海野"家を継がせ、自分の"喜兵衛"を与えて一族厚遇、そして徳川軍を共に迎える上田合戦


高鳥屋城_05
北側の備え

信濃国内では珍しい仕様で、
4筋の堀切で尾根を切り、内に2つの曲輪と
3つの岩塁を置いた一体的構え。

自然の尾根を削平した確かな曲輪で、岩塁は曲輪の後方に置いて堀切の外法を担う。下り易く上がり難く、最奥主郭の内法は20cm前後の小さな割石を積んでいた。

側方へは堀切から堅堀を続けて刻み侵入を阻害
堀切の比高は主郭側から、
①4.4﹀0.6m

②4.3﹀0.9m

③2.0﹀1.0m

④3.2﹀0.6m

単に深くするより鉄砲による戦い方を考え抜いたものと思われる。真田昌幸が関わったものであるならば、晩年の経験に裏打ちされた山城の形として貴重になろう。


高鳥屋城_06
南側の備え
高鳥屋城は3方向に尾根があり、西は自然な1ヶ所の崖切岸で心許なく、北は人工的な複数の堀切で堅固。一方の南はその中間的な構えであった。

堀切を2本刻もうと尾根を掘ったが、岩盤が出てしまったため、崖を整形した小段付きで1本の深い堀切5としたようだ。

堀切5より更に南の麓側は、尾根の側面を切岸して狭くした長い土橋。

敵は縦列で進み、近付いたところで順に撃たれるのだろう。切った跡の斜面に岩盤が露頭していた。

その先には簡素な堀切を1本設けているが、外法は石塁により比高を確保した簡便な堀切にすぎない。

城の北側にも石塁を法にした堀切があり、同時期の工事となるだろう。


高鳥屋城_07
本曲輪を巻くように、その下には尾根が延びるS-W-Nに長い帯郭を配した。どちらの尾根から敵が来ても柔軟に対処できるようにしていた。

本曲輪と帯郭との土塁は2m程で、土塁の上には板塀の基礎と思しき石が多く残る。

西方向から、門を置いたとみられる礎石を辿って行くと本曲輪の南にある虎口に到達した。やはり西からは補給、そして北への備えを主眼にした城なのだろう。

高鳥屋城の本曲輪と南麓の集落に、城を紹介する看板が設置され、今は骨組みだけになってしまった旗も寂しく立つ。真田丸の時に盛り上がったのだろう。

これまで多くの人が描いた縄張り図を見てきたが、間違い、簡略化、不足などが散見される。しかしこの縄張り図はレベルが高いぞ!


最後に、

写真の中央やや左が高鳥屋城、その下に見える瓦葺き屋根は信広寺になる。大井大和守信廣の菩提寺
城跡を見た後、史料などを丁寧に読み込んでいくと、私の推論であるが、次の事が起こったのではないかと想像する。

👉天正8年『蓮華定院』史料に「先代より武石の郷配領内」と大井竹葉齋正棟の名が残る。
「配領」なので武田から与えられた土地。「先代」を信廣に比定すると、武田家臣となった大井大和守信廣は、実の息子である和田城主の大井信定が村上と謀って武田に謀叛したため、責を取って切腹。高鳥屋城に籠っていた村上勢等も討たれた。代わって岩尾城の大井信綱(後の竹葉斎正棟、大井行真の実子である)が養子で入り、武石領を継いだ。武石館と中山城を拠点とした。
武田滅亡後は真田の支配下となるのだろう。

ボッチ城series荒城

佐久市前山[まえやま]
信濃国佐久郡


荒城_Prologue
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城名を知ってる人は、"何ちゅうマイナーな城を!"と思うだろう。
それほど地域で知られていない城になる。

実は古刹貞祥寺に行った際、伴野左衛門佐が、両父追善のために建立したにも関わらず"前山城"から離れた位置を選んだのに疑問を持ったため、毎度のCS 立体で見ると、寺に附随する城跡らしきがあった。
思わず
"新城発見!"と思ったが既知の荒城..
佐久市埋蔵文化財分布図に載っていた..

洞源山貞祥寺の史料を見ゆ
「前山城から老若婦人を退去させ、伴野刑部少輔は籠城して討死。子息の伴野貞長は城外で戦い、城に火が上がったため南に突破し、敗残の兵を集めて突撃して討死した。享年二十
前山と荒城は灰塵となったが、洞源の伽藍は開山禅師の徳澤により無事であった」
天正10年依田信蕃との戦記になる

前山城の南と言えば、荒城~荒山城[大澤]の付近になり、ここに再集結して突撃したのだろう。至近距離貞祥寺は戦火を免れたが、大澤郷の長命寺は焼けた伝わる。
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Tweetで前山城は武田晴信による天文17年普請と伝えたが、それ以前は"荒城が伴野氏の前山の城"ではなかったかと考えている。荒城の900m南西に大澤郷の"荒山城"があり、洞源湖の付近には大堀があったと云う。当然守る為の堀で、ここが前山伴野氏の一体的な拠点とした場所と推定した。
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ちなみに、
「洞源山貞祥寺開基之由」には、
伴野佐渡守光利は出家剃髪して荒山城の西丘に庵を設けて隠居養生した。延徳元年卒 洞源院殿廓翁了然
その後、孫の左衛門佐貞祥も剃髪して大永元年に荒山城の庵へ入り、両父追善のため叔父節香禅師を招いて貞祥寺を建立し日夜参請したとある。永禄2年卒 貞祥寺殿讃月斎全心
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このように、平地の低い場所にある荒山城は要害堅固でもなく館のようなもので、"隠居城"として使われていたようだ。
武田晴信が内山城に佐久郡を治める拠点を移し、武田の前山城は不要となり、伴野氏が在番又は与えられることになったのだろう。こうして伴野光利から整えた荒城、武田が築城した前山城の形が整ったとみられる。


荒城_01
縄張り
あまり知られていないので、歩いて全域を調べると、追手となる虎口を山側に設けて大きく迂回させる城であった。
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城中の畑へ車が入れるよう埋められた痕跡があるので、恐らく虎口には空堀があり、地下水位が高い場所なので水堀だったかもしれない。
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ここを橋で渡って城に入ると、反時計回りに狭い城内の道を通し、複数の曲輪を経て本曲輪に至る構え。
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敵を1列にさせて移動させながら討つ構え。特に虎口からの侵入を押さえる西と2曲輪に堅固な建物を置くなど要としたろう。

一方の荒山城からの道は谷底で険しく、南斜面には崖と緩い部分があり、25°程の緩い斜面には無数の切岸が施されていた。
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城跡だと知らずに行ったため、疑う視点で城に広がる林檎畑や藪を丹念に調べたが、見るにしたがって遺構と感じ、決定的に確信したのが本曲輪の土塁であった。武者走り付きのWーNに延びるもので、築城者がどう守ろうとしたのか教えてくれるもの。


荒城_02
前に紹介した南南東4.5kmにある小田切城の切岸は、段平場が1~3mであったが、荒城では幅が3~7mと広い。
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戦の仕方によるので長い腰郭なのか、段なのか判断は難しいが、広ければ各段に兵を配置できるし、二重三重の木柵も置ける。ただし敵が多く滞留できるスペースにもなるので、使いようなのだろう。
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荒城では、平地の幅を狭く複数段にするよりも、切岸の高さを優先したのだろう。概ね4~6mの高低差となる。
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私見では、東西の尾根ラインに置いた曲輪を軸に、南側は概ね切岸の段々を展開、北側は腰曲輪で、兵の配置や建物が置かれていたと見ている。そして南側麓近くの荒山城からの道の脇上に、出入りを見張る関所のような曲輪があったと思われる。今は畑になっていた。


荒城_03end
荒城のある山の地質は、前山城,小田切城と同じく礫岩を基盤とした火山灰質土の山。前山城より土量は多く、小田切城より少ない、これは八ヶ岳からの距離によるのだろう。
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荒城の普請の様子を見ていくと、岩を砕くことなく、岩盤の形に合わせて土を切り盛りして曲輪を築いていた。

本曲輪の西~北には土塁が置かれ、土塁が無い南~東には板塀の礎石と思われる石が散乱していた。土塁は武者走りの幅がきちんと確保され、火山灰土のため500年以上も経つので潰れ気味であった。本来は高さ1m以上はあったろう。
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全周を土塁で囲んだ方が効果的だと思うが、上って来てほしくない西~北は高低差を重視し、南は追手口から入って来た敵を狭間から討つよう使い分けたかと考える。
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(下写真は板塀を復元した場合の参考)
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荒城の周りを歩いて驚いたのが、地下水が豊かで至る所に水が湧いていたこと。用水技術が未発達な中世では絶好の耕作地を得られよう。
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文明16年に伴野殿の在所を訪れた瑞知客は、そこを「前山と云,四方沼田あり,三方は町,山城なり」と記し残した。
武田の前山城付近の土地を見ると、湧水は無く沼田でもない。
荒城を中軸に、左右へ貞祥寺と長命寺を構え、そこは城への登城道でもある。見事な構えではないだろうか、ここが前山伴野氏の拠点、前山の城なのだろう。